心の病は、社会の病。

みんなが幸せに生きていけるように、より良い社会を求めて。
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2017年1月25日水曜日

依存型の政治と、自立型の政治

こんばんは。早川です。私の書き込みに対して上原さんとメールでやり取りをしていて、私の書いた内容をぜひブログに載せた方がよい、となったので、引き続いて私が書き込ませていただきます。

前回の書き込みから時間がたち、実際にトランプ大統領が就任し、連日以前では考えられなかったような決断が下され、その度に世界中で大騒ぎになっています。私は前回の書き込みに書いたように、「威勢が良く中身がない言葉は、結局信頼を目減りさせるだけ」になると思っています。

私は基本的にトランプさんの考えや、彼のやっていることは支持しません。基本的に無茶苦茶でひどいもんだと思っています。ただ、貧富の差が広がり、エスタブリッシュメントが固定化している現状に怒りを抱く人たちが多いことも、全く理解できます。トランプさんが大統領になって格差が小さくなるとはとても思えないですが、現在の格差の拡大がこれまでのオバマ政権下で起こったことは事実で、トランプ大統領のせいでは(現時点では)ないのも事実です。

私は「人々が選んだのだから、これが民主主義だ」と悟り顔で言いたいわけでもありません。彼が選ばれたことは間違った選択だったと思っています。ただ、「昔はよかった」的な発言に違和感を覚えるだけです。一体、いつの昔に、「真の民主主義」があったのか。トランプさんの手法がポピュリズムと言われますが、ポピュリズムではなく行われた選挙がこれまで主流だったのでしょうか。

日本の小泉旋風や民主党が政権をとった選挙、大阪維新や昨年の小池都知事のブームは、ポピュリズムではなかったのでしょうか? トランプさんのポピュリズム的手法が批判を浴びますが、「ヒラリーさんのビックデータを駆使したやり方や、選挙資金をたくさん集めることが勝利に繋がる、という考え方は批判の対象にはならないのか」と思ったりもします。それは「お金を使うことで大衆を扇動している」ことではないでしょうか。なんとなく、「インテリが認めたやり方はポピュリズムではないけれど、インテリがコントロールできないものはポピュリズム」という判断基準がマスコミ側にあるように感じてしまいます。

真の民主主義は、ポピュリズム的手法にも、ビッグデータを活用した方法にも、決して流されないような、もっと地道なものだと思うのです。トランプさんはわかりやすい悪役だけど、ヒラリーさんを初めとした左翼インテリ層の手法も、それはそれでポピュリズム的な面を持っていて、トランプだけ悪者にするような捉え方は安易に思えます。むしろ、「国民はいまだポピュリズムに左右されてしまう面があって、今の民主主義の方法では、ポピュリズムを無視して政権担当できない」というのが現在の真実ではないでしょうか。私には、今の政治は「依存型の政治」に思えます。つまり、「権力者に任せておけばなんとかしてくれるよ」というものです。でも、人々がこの考え方である限り、ポピュリズムから自由になれないでしょう。

私には、民主主義は未だ発展途上で”青年期”のようなものなのだと思います。では成熟した真の民主主義とは、「悪者がリーダーであっても、圧力をかける形で結果的によい政治をさせてしまう政治」だと思います。それは、依存型の政治に対して、自立型の政治と言えると思います。つまり、権力者に依存していないわけです。例えて言えば、本来はかなり右寄りの考え方の安倍首相に、安保法制を通させてしまったのは民主主義の失敗で、韓国との和解や真珠湾訪問といった本来はやりたくないであろうことを実行させたのは民主主義の成功のように感じるのです。

特定の政治家に依存するのではなく、彼らに圧力を加えながらコントロールしていくのが、成熟した民主主義の在り方ではないか、と考えています。トランプさんを当選前から支持していた投資家ピーター・ティールは、「変わらないままの方がこわい」と語っていました。インタビューの全文を読むと、ティールは「変化の中でよい方を選択していく」という考えを持っていることがわかります。
https://newspicks.com/news/2015176/body/?ref=user_727371

そういう意味では、これからのトランプさんのやることに対して、アメリカ国民やメディアが圧力をかけて、トランプさんが本来したくないであろうことをさせていけるかどうか、を見守っていきたいと思います。

2016年9月13日火曜日

不安で感情的になるのも仕方ないような…。

こんにちは、大森です。

早川先生から、「人間にとって長期的な安定した信頼感は重要なもの、しかし社会は長期的な利益を待つことに耐えられなくなり短期的な利益を安易に求めてしまう」という言うご指摘がありました。

なぜ私たちの社会は目先の利益や成果を求めるのでしょうか?

多くの企業が過去最高益で内部留保も最高額の数百兆円と言われています。数字だけ見れば余裕のある生活ができてもよさそうなものですが、なぜか実質賃金は上がらず世の中には停滞感や不公平感があります。

大手中小企業ほとんどの経営者が「災害、テロ、社会動向、業績不振など不測の事態に備えるには内部に資金を持っていなければならない」と言っており、社会のリーダー、トップにいる人達でさえみんな不安でしかたがないようです。

このような状況では、私のようなものが大きな不安を感じて情緒的になってしまうのは、しかたがないことだとも思ってしまいます。

イギリスが離脱したEUも選ばれし役人が特権的な制度をつくっていたり、アメリカもオバマケアは結局は中産階級の負担が大きくなってしまったり、リーダーの資質と言うよりは、リーダーも支持階級であるエスタブリッシュの権益を守らなければその地位を得られない、といういまの社会の仕組みが情緒的なものを生み出していると思うのです。

今こそ経済や社会においてルールセッティングする側のエスタブリッシュの人々に、本当に頑張っていただきたい。

しかし、エスタブリッシュは「自己評価が高い人達」でなければその地位を目指すことはなく、自己評価が高いということは、先般、東京大学の男子学生の強姦事件で「他の大学の女子学生は頭が悪いから」という発言や、相模原殺傷事件の犯人の言葉「役に立たない人間は不要だ」という感覚にも親和性があると思うので…やっぱりあまり期待できないのかなぁ…というのも正直なところです。

暗い話ですみません、でも文明って自然災害などではなく、こういうところから滅んでいくのではないだろうかと思ってしまうのです。

2016年3月9日水曜日

聞く人、とくに力が強い人に必要なこと。

こんにちは。大森です。

寒いのか暑いのかわからないような不安定な日々が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

さて、早川先生からSNSによる自由な発言(言語化)の可能性と上原さんの言語化における感情の発露の難しさについてご意見がありました。

合理的に伝えたいことと感情の表現を両立させることは難しいですよね、しかし、最近興味深いことがSNSで起こりました。

それは「保育園落ちた日本死ね!!!」です。

衆議院の予算委員会でもとりあげられて自民党議員から独特の反応が出たのですが、この匿名ブログの書き込みがSNSで拡散され同じ境遇にある人達がそのメッセージの意味と感情に共感して国会前でデモをしました。

権力や利権がある側は「現実として財源や人材が足りない…」と言ってしまえばやり過ごせるのでしょうが、弱い立場で権力や利益に関われない人たちは益々やりきれない気分になってしまいます。

言語化や発言におけるSNSでの共感や感情を無駄にしないようにするには、聞き取る側の「感受性」が大切でしょう。

個人的には倫理的な善悪も合理性ではなく感情に起因し、納得するためには感情が大きく影響すると思うのです。

子と親、生徒と教師、社員と役員、国民と議員、立場が強い側こそ感受性を発揮していただきたいと切に願います。

2015年9月16日水曜日

言語化と力の構造

こんばんは、大森です。

早川先生から、いじめによる子どもの自殺について「子どもたちと学校側の力の拮抗がなければコミュニケーションが成り立たないのではないか」というご指摘を頂きました。

言語化とコミュニケーションには常に力の構造が影響しています。世界を見渡してみても韓国政府は国民の感情と意向に、中国当局は共産党幹部の感情と意向に、日本政府はアメリカの感情と意向に、その力の構造に逆らうことはとても困難です。

集団的自衛権と安保法制も国民の安全や憲法との整合性というよりは、アメリカの意向を忖度して「それが現実だからしょうがない」ということで決めてしまう。

興味深いのは、そういう力の構造が現実に存在するかどうかはわからないけれどもあると思ってしまうところ。

コミュニケーションが困難になった場合、以前であれば相対(あいたい)の関係ではなく、第三者が入って解決しました。日本だと経験豊かな長老や良識ある賢者たちだったでしょう、しかし価値観が多様化し複雑化したいまの社会ではそのような人たちの役割がなくなってしまいました。

これから私たちはどのような方法や仕組みで言語化とコミュニケーションを図って行くのがよいのでしょうか、とてもむずかしいです。

2015年6月28日日曜日

言語化の役割

こんにちは、大森です。

本当に久しぶりの早川先生の書き込みで、そのテーマは切実で変わらぬスリリングな議論が今後も続けられることに感激しております(笑)

西欧におけるモハンマド風刺事件は、自らの価値観を他人に押し付けることを野暮とする私(日本人)からすると洗練されておらず垢抜けず「外国の人は困ったものだ」という感覚があります。

憲法論議については、法というものに対する西欧人の客観的基準と日本人の主観的基準の違いが現れていると思うのです。

西欧人は他者との共存のために客観的に参照する基準、それが法であり憲法になる。

日本人は法は客観的に参照するものではなく主観的に解釈する傾向があるように思われます。

私自身もいろんな裁判の判決に違和感を感じることが多く、それは法の論理と主観的感情との差異なのだと感じています。

なので、本来は政府に対する最高規範である憲法ですら日本政府は恣意的に解釈してしまうのでしょう、さて、問題はそこなのです。

今の政府が集団的自衛権の必要性において「現実の危機認識が変化したからだ」と言っています。人間の心が抱く現実と妄想はきっちりと分けられるものではなく紙一重と言ってもいいかもしれません。

この議論は現政府の現実と妄想はどのあたりにあるのか、私たち日本人が現実をどのように認識をしているのかを知るよい機会だと思います。

私は集団的自衛権については、憲法解釈という主観的かつ恣意的な手法ではなく、憲法改正という正当な手段で日本人の現実認識の議論(言語化)踏まえた上で立法を目指したほうがよいと考えるのですがいかがでしょうか。

2014年12月11日木曜日

妥協と現実

こんにちは、大森です。

衆議院選挙の投票もあと4日後と迫りましたが、今回はどのような結果になるのでしょうか。

早川先生から「言語化」の観点で今の日本の政治を見ると、「議論が不可能な政治になっているのではないか」というご指摘がありました。

テレビの党首討論を見ていても、それぞれが主張を言い合うだけで交わるところは何もありません。それ以上にほとんど与党と変わらない政策を掲げている野党もわざと違いを目立たせるためにほんの少しの差異を過剰にアピールしています。

テレビ番組なので限られた時間内に発言しなければならず、自分たちの主張を押し通すということになるのでしょう。番組を見ていて考えたのは、企業でも限られた期間の中で成果を出すこと(例えば第三四半期の達成度など)があたりまえになっていて、まずは時間と成果、この2つが最も大切なことになっていることです。

今の世の中は「妥協」を探っていたりなどしたら、決められた期間で成果を上げることができなくなる、ということではないでしょうか。

そのような状態の中で成果をあげられるのは、声の大きい、つまり資本や体力がある人や集団、ということになり、格差の問題もここにあります。そして、資本と体力がある人ほど、自分が献身的に頑張って周りをよくしなければならない、利他的であらねばならないと思っています。

高度成長期のように答えはほぼ一つの世の中から、いまは停滞混迷期でほぼ答えはない世の中になってしまいました。不安だからこそ、断定したい、そんな心持ちになっているような感じがします。

私も早川先生の「妥協」と話し合いが大切だと思いますが、すでに「妥協」も理想の領域にあって意識が届きにくいものになっているのかもしれません。

2014年10月22日水曜日

「もー、面倒くさいな、ほっといてくれよ」という感じでしょうか。

こんにちは、大森です。

早川先生から「実際に言語化を進めようとすると、言語化に反対する動きが起こります」というお話がありました。確かに、私も日々の生活の中でそのように感じることが多々あります。

私は言語化に反対する理由というか原因は下記のようなことではないかと考えています。
1.感情を言葉にできない
2.触らぬ神に祟りなし
3.習慣

それぞれ違う次元であることをご了解いただいた上で説明しますと…

1.感情を言葉にできない
人間は自分が納得するためには合理的なものだけではなく、感情の作用も必要だと思います。しかし、なぜ納得できないのか、理解できないのかを理屈では説明できても、感情の部分が言葉にできない、だからますますイライラ不安になって話をするのも嫌になってしまう。

2.触らぬ神に祟りなし
昔、私はかわいい赤ちゃんや子供がいると思わず「かわいいですね~抱っこさせてください」と言っていたものですが、今はもうそんなことを言おうものならお母さんたちが怪訝な顔や不快な反応をするだけです。最近もラーメン屋で横に座っただけで殴り踏み殺された事件がありました。もう、今の世の中、他者は何者か分からない不気味な存在なのです。

3.習慣
いつも仕事では成果を出すために忙しく、プライベートではLINEやSNSへの応答が大変であり、それが毎日の習慣なので、ちょっと考えなければならないことが起こると面倒で言葉になどしていられない気持ちになります。せっかく考えないでいいような習慣をつくりあげているのに邪魔をしないでくれよ、ということです。

価値観の相違で意見対立、などというのは遠い昔の話で、もはや同じ価値と趣味を共有する者同士でしか対話は成り立たないのかもしれませんね。

アメリカのゲーテッド・コミュニティやイスラム国などはそれが顕著に現れていると感じます。はてさて、どうしたものか…。

2014年3月31日月曜日

「世間」における感情と論理

こんにちは、私、大森も大雪や実母の入院などでいつもとは違う日々を送っており、なかなか書き込めずに申し訳ありませんでした。

母の入院に際して医療に関しまたまた色々と考えなければならないことがたくさん出てきましたので、それは近い将来の議論のテーマにさせていただきます。

さて、日本人の行動規範の基になる世間について早川先生から、
・世間は不文律で修業の場になっている
・今後は社会が開放的になっていくので世間も言語化していく必要がある
というご指摘がありました。

いま日本は過渡期で大きな矛盾を抱えており、それが不安やわからなさになっているのだと思います。

例えば、日本人が大好きな「ものづくり職人国家」は、まさに師匠の背中と手を見て悟れ、という不文律の世間です。一方で、事実を積み重ねて合理的にやっていかないと物事は解決しない複雑な世の中になっています。

具体的にいうと、いまの若者は旧態依然とした農業には従事したがりませんが、生産管理にITを導入した農業にはどんどん入っていっています。

また、これからの世の中は人材や職業の流動性が高くなります。私たちは誰もができる仕事をしながら、徐々に誰もできない仕事を身につけたり探したりしなければなりません。

そういう意味で、早川先生の「言語化が大切」というお話に賛同します。

もうひとつ、憲法解釈について!
個人的には、政権ごとに憲法解釈が変わるのであれば、憲法など不要で、都度そのときの政権が基本的な法規範を示すほうが良いと思ってしまいます。

今の政権の憲法解釈における判断は、感情と論理を混同しており、感情では解釈を変えたい気分なのでしょう。しかし、法における言葉は論理的に意味を表さなければなりません。やはり、ちゃんと憲法改正のための議論と言葉を尽くし国民に問うべきだと考えます。

これからは、言葉における、感情と論理を充分に意識する必要があると思うのですがいかがでしょうか。

2013年11月11日月曜日

「世間」よ、もう一度

徐々に寒くなってきましたね、早いものでもう11月です。
街はやはくもクリスマスモードになっていますね。

クリスマスというとテレビのCMなどでは家族揃ってフライドチキンを食べる、などというシーンが毎度繰り返されるのですが…。

CMにもあるようにマーケティングでも個人と家族という単位は経済的土台を成すものなんですね。

一橋大学の学長でいらっしゃった阿部謹也先生が「世間」について面白い考察をされています。
日本人の行動規範は西欧的な「神」ではなく「世間」なのだそうです。

阿部謹也先生(Wikipedia)

この「世間」がうまく機能すると個人の社会生活も精神的にもソコソコ安定する、ということなのです。
つまり、故郷に錦を飾るとか、同じクラブに所属する仲間ならば恥になるようなことはできない、ということですね。

モノを大量に生産販売する産業文明において、私たちは核家族そして個人化を進めてきました。そうすると「世間」もあるのかないのかわからないようなものになり、日本人にとっての行動規範も曖昧なものになってきているのでしょう。

とはいえ、僕たちは一神教の神を信仰することも、仏教に帰依して出家することもできないので、やはりこの「世間」をつくっていくしかないのではないかと思うのです。

家族、Facebookつながり、仕事仲間、趣味やライフワーク、それぞれにいろいろ「世間」をつくる。とはいえ「世間」は五月蝿いし面倒臭いので、それぞれの「世間」にその都度逃避することができるようにする。

やっぱり、日本の文化は抽象的かつ絶対的ではなく、個別具体的かつ相対的なので、スパっとは割り切れず面倒くさいのは、しょうがないかもしれませんね。

そんな気がするのですが、いかがでしょうか?

2013年9月9日月曜日

血縁や愛憎を超えて

こんにちは、やっと秋のような雰囲気になりつつありますね。

早川先生の投稿で「最近の子どもたちは対人関係が上手ではない」と書かれています。日々、多くの子どもたちと接して支援されていらっしゃる先生ならではの実感がそこに現れていると思います。

なぜ対人関係が上手ではなくなったのでしょうか?
私たちの対人関係を準備するのは、家族であったり、家族となるような共同体でしょう。

たぶん、家族のあり方が時代とともに変わっているので、「甘えの在り方」も変わっているのだと思います。

私のような昭和33年(1958年)生まれの世代には、「家族とはこういうものだ」という共通した感覚があり、また、そのような感覚に従って対人関係も築いていったように思えます。

たとえば、家族愛やそれにつながる家族的経営など。

さて、今はどうでしょうか?
先日、婚外子相続差別に違憲判断が出ました。
※婚外子相続差別 家族観の変化に沿う違憲判断(9月5日付・読売社説)

親は愛するまたは好きな異性と共に意志と覚悟をもって子供をつくることができますが、子供は親を選ぶことはできません。このようにそもそも家族を基にした人間関係はハンディがありフェアではない在り方なのだと思います。

価値観の多様性は経済だけではなく社会にも良いことだというみんなの意識はこれからも変わらず、もっと進んでいくでしょう。

私たちは、血縁や愛憎を超えて家族や共同体を作って行くことができるのでしょうか。

じつは、この思いは私が5月2日に投稿した「これから100年続く、ナルシシズム戦争。」からずっと続いているものなのです。

2013年7月30日火曜日

甘えの根底にある「母なる愛」

こんにちは、大森です。
西日本では豪雨になり、首都圏は取水制限とか…人間はいつになっても自然にはかないませんね。

上原さんの「甘えはパフォーマンスの一種である」というご指摘は興味深いですね。特に女性の場合は、甘えたふりをしないと関係が成り立たないということです。たしかに母性の最も大切な役割は「甘えさせる」ことでもありますね、特に日本の場合はその傾向を強く感じます。

多くの日本の宗教家は超越的な神のような愛ではなく、限りなく包容力のある母のような愛を掲げることが多いように思います。宗教系の雑誌の電車の中吊り広告を見ただけでもそのようなタイトルやコピーが並んでいます。

私は日本の今上天皇にも母性愛を感じます。

日本人にとって「大地なる母」という言葉は生命を生み育むだけではなく、私たちを2本の足で立たせ、支えるための土台のような意味も感じます。日本人にとって、人格者である人は母なる愛を体現している人、そのような共通感覚があるように思います。

しかし、現実の人間の日本の母はそんなことはない(笑)人間である限り、好き嫌いもあり差別もすれば偏向していて自分の子供だけが一番可愛い。

私たちの甘えの根底にある「母なる愛」の幻想や欲求は、どこから来ているんでしょうかね?

2013年7月19日金曜日

共存の道は…悲観的すぎるでしょうか。

こんにちは、大森です。
ほんとうに暑いですねー、あと2ヶ月近く続くのかと思うと気が遠くなります(笑)

今回の「甘え、ナルシシズム論争」で思い出したことがあります、それは「常連」です。
2010年7月に、自分のブログに「常連が店をつぶす」という記事を書いたことがあります。
http://www.streamline.co.jp/?p=258

日本人は都会の中でも「よそ者は排除」や「仲良しグループ」モードが全開してしまう場合が多々あります。

本来は他所(よそ)さまであったり、みんなの場所であったりする空間が、通いなれて親しくなるに連れ、ある瞬間に自分の家のように錯覚してしまうのだと思うのです。お店の店主も、常連も「家族のようなもんだから…」ということで相互に依存してしまう…これが日本人の甘えなのではないでしょうか。

西欧のように神という超越した価値がある場合は、みんな神のもとに平等なのだから神のルールに従うべし、ということになり、どんなに親しい間柄であれ、他所(よそ)さまやみんなの場所では決められたように振る舞え、ということになる。だからこそ、神の教えが異なる国や民族の間では規範に基づく争いが絶えないのでしょう。

ひるがえって日本人には、西欧の神のように超越した共通価値がなく、私たちの規範は家族によってもたらされます。他者との関係も「家族それぞれだから、しょうがないよね」ということで理解しあう以前に諦めている、というか、「それぞれの家族を認めることが日本人の優しさ」だと思っているところもあります。

できれば、良い距離感でお互いの存在を侵害せずに共に生きていく、これが日本人の知恵でありスタイルかもしれません(私はこれが大好きです;笑)。

どうなのでしょうか、西欧の人は神に囚われている限り、日本人は家族に囚われている限り、どうであれ人間は他者を理解する事など、できないと思ってしまう私は、悲観的すぎるでしょうか(笑)

2013年7月8日月曜日

都市のナルシシズム

暑いですねー!大森です。
またまた時間が開いてしまって、恐縮です。

「甘え」は日本人の特徴がよく出ていますよね。
外国と異なり、歴史的に自治の経験がないのでどうしても上意下達の生き方になってしまいます。

早川先生がおっしゃるとおり「甘え上手」であるほど重宝がられたり、出世したりします(笑)

面白いことに、私の仕事仲間でも、上司が年下であっても部下が上手く甘える人であれば性別を超えて良い関係で仕事をしている仲間がいます。

早川先生がおっしゃるところの「甘えの文化が残る地域性」において、具体的な甘え方や受け入れる側の構えなど、どのようになっているのでしょうか?

その一方で、私は「都市のナルシシズム」にとても興味を持っています。

「都市のナルシシズム」とは、匿名性の社会において自分が自分に対して「イイじゃないか」という感覚のことです。

例を挙げると、日本の都市の電車は過密スケジュールでありながらピッタリ定刻通りに運行します。私たちは電車の運転手を知りませんし、運転手も乗客である私のことを知らない。

誰にもほめられることはないし依存もできない、しかし、定刻に運行することが運転手自身が美しいと感じる自分がいて、そのために行動をする、というようなことです。

これから社会が複雑多様化するのは避けられないと思うのです、そのときの支えになるのは「甘え」とはちょっと違うところに位置する「都市のナルシシズム」ではないかと思うのですが、どうでしょう?

2013年5月2日木曜日

これから100年続く、ナルシシズム戦争。

こんにちは、大森です。
ゴールデンウィークに入りましたが、寒い日が続きますね、本当に地球は温暖化に向かっているのでしょうか(笑)

さて、早川先生の「日本人は、近代化していくことに、本当に耐えられるのでしょうか?」という問いにお答えすると「ほぼ無理です」ということになります。

早川先生がおっしゃるとおり、無理に「近代化」しようとすると、「合意点を探らずに自己主張だけする」「人の気持ちなんて考えなくなる」ことになります。

すでにそのようなことが現れていて、すべてが自明であるかのような振る舞い(体罰)、モンスターペアレント、ストーカーなどはその症状だと思います。

これは、ナルシシズムの増長を越えたナルシシズムの崩壊です。

ナルシシズムとは欲望の対象が本来は他者やモノやコトに向かうものが自分自身に向かってしまうことだと定義すると、まさにいまこのような症状の人が多い、かくいう自分自身も少なからずその傾向に耐えなければならないこともあり、他人事ではありません。

なぜこのような症状が起こるようになったのか、社会的には多様化しすぎて価値観の共有ができなくなってしまったこと、経済的には市場が飽和しすぎて「自分へのご褒美」などというマーケティングに行き着いてしまったこと、文化的には「世界にひとつだけの花」などという歌が流行したこと、などなどが影響しているのだと思います。

すでに大森が言うところの「日本人の近代化」は始まっていて、これらの社会的現象はナルシシズム戦争の振る舞いなのだと考えます。

日本人のナルシシズム戦争は100年は続くでしょう、このナルシシズム戦争の超克こそ日本人の近代化であり、西欧人の自我の確立とはまったく違う近代化だと思うのです。

2013年3月11日月曜日

日本の潮目が変わった、近代がこれからはじまる


こんにちは、大森です。
本当に間が開いてしまって申し訳ありません。

体罰、震災復興、多様化などなどの問題を考えるにつけ、この頃思うところがあるんです、それは、「2013年から本当の日本の近代化がはじまる」ということです。

体罰は女子柔道部日本代表と監督首脳陣、そして大阪のバスケットボール主将と顧問教師、これらは不幸な関係と結果になっていますが、明らかに言えることは「分かりあえていると思っていたのに、実はまったく分かりあえていなかった」という事実です。

以前、我々のブログでも日本人は阿吽の呼吸のハイコンテクスト文化だ、などと決めつけていましたが、実は日本人も一人ひとりが異なる個人的背景を持つローコンテクスト文化だったのです。

また、復興が進んでいるのは行政の決定を待つのではなく、市民が先行して決定しどんどん要望を提出していく街区だそうです。

これからは日本人同士だから分かり合える、同じ価値観を持っているのだから分かり合えると思うのはホボ無理でしょう。

つまり、西欧の人たちが民族や個人間の葛藤を経て近代化したように、日本人は2013年から否が応でも個人は近代化していくことになる。

そう感じるのは私だけでしょうか?

2013年2月8日金曜日

能動的な忍耐と、受動的な体罰の違い

早川です。
年明け早々引越しでバタバタしていて、書き込みが遅くなってしまってすみません。

さて、体罰の話題ですね。

体罰については、上原さんが投稿された後に柔道女子日本代表の選手が、代表監督の体罰を告発する、ということが起きました。オリンピック代表レベルでも体罰があったのか…と思う一方で、「やはりそうか」と思うところもありました。

この「柔道の体罰」について、スポーツライターの金子達仁さんは、下記のように書いています。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kanekotatsuhito/20130201-00023301/

確かに、「武道」にとって「耐える」ことは重要なことだと思います。武道に限らず、人が生きるうえで「耐えること」「我慢強いこと」は重要ですし、それゆえに日本で子どもたちに武道を習わせたいと思う親も多いのだと思います。

でも、「我慢強くなる」ために体罰が必要とは思えません。体罰など、強制的な力を用いて耐えることができるようになったとしても、それはしょせん「受動的な我慢」であって、「自ら立ち向かう能動的な忍耐力」にはならないでしょう。

大切なのは、「本人が目的を理解して納得しているか」「本人の意思」だと思います。ボクサーが試合前に取り組む減量は非常に過酷ですが、本人が納得して能動的に取り組むところがまったく違うと思います。

精神科で最近よく使われる「認知行動療法」というものも、本人の納得と意思をとても大切にします。医療におけるインフォームドコンセントも同様な意味があると思います。

大人だろうと子どもだろうと、きちんと説明してもらって納得して取り組むかどうかが大切なのだと思います。体罰と言うのは、その辺りを省いてしまった結果起きてしまうのではないかなあ、と思いました。

2012年12月16日日曜日

複雑で抑うつ的な日本


こんばんは、大森です。

いま総選挙の結果が出つつあり、自民党の過半数獲得が決定的になったところです。前回は民主党の圧勝で今回は自民党の大勝ということで、国民の意思表示も激しく揺れていますね。

とはいえ、民主党の3年間は何もやらずに増税だけやってしまったトホホな政権だったので自業自得だと思います。

民主党は目標を掲げても実現できない国の現状をそのまま体現してしまったようで本当に抑うつ的な雰囲気を日本国中に醸しだしてくれました。

前回、早川先生から「まとまった人格」が感じられないとのお話がありましたが、このような雰囲気が影響しているのではないかと思いますがいかがでしょうか。

また、インターネットなどの浸透で情報がオープンになった社会などと言われながら、結局はまた財務省の傀儡政権ができてしまうのだろうという陰謀論がまことしやかに囁かれます。

何が真実なのか、どうしたら少しでも良くなるのか、世の中は本当に複雑になりわからなくなる一方ですね。

当分は抑うつ状態の日本で過ごすことになるのでしょうね。

2012年11月7日水曜日

バラバラな、雰囲気です。


こんにちは、大森です。

大変間が開いてしまって、申し訳ありませんでした。
その間にアメリカではオバマ大統領が再選されたり、摩訶不思議な親族連続殺人事件があったりでいろんな出来事が起こっています。

前回、早川先生から「自分の頭で考えて、私はこう思うと発言していかなければならないのではないか」とのご意見がありましたが本当にそのとおりで他人事ではありません。

しかし、私がいま感じるのは、2極化しているように思えるのです。

それは、まったく何も考えておらず、というか日々に追われて考えられないのか…さほど危機感がない人がいます。その一方で、「もう日本はダメだから、海外へ逃げる準備をしないと」と言って、それが冗談ではない切羽詰まった人たち。これは若い人たちに多い状態で、危機感満載の人たちはテンションもものすごく高かったります。

また、年寄りはといえば、考えているのですが、保守的でありながら依存症のような感じの人達が多いように思います。もう世代ごとに感情や考えていることがバラバラなような気がします。

価値観の多様化と言ってしまえば、それで終わりなのかもしれませんが、これから世の中が面白くなりそうな気配が全くしないのが残念です。

これから当分はこのような雰囲気が続くのでしょうか…。

2012年9月25日火曜日

他人を手段としてしまうこと


こんにちは、大森です。

更新が遅くなって申し訳ありません、
夏の終わりに謎のウィルスに侵入されて、激しく体調を崩しております(泣)

さて、いじめの話を発端にして、日本人が見て見ぬふりをするという話になっていますが、私の中では前回書いた通り「見て見ぬ振り」というよりも、「目の前に起こっていることをただ受動的に眺めて自然のなすがまま」というニュアンスがまだ残っています。

これは、見て見ぬふりと言うよりは「無意識に他人を手段としてしまう」というような感じです。

もう少し突っ込んでいうと、自分や集団の目的のために他人は犠牲になっても構わない、そういうことを無意識なまま行動している、という感じです。

そして、責任ある役割の人達ほど、そのような感覚なのではないかと思うのです。

うーんと昔であれば、切腹させられたり、暗殺ということがあったのですが現代はまったくそのようなことが起こり得ないので、自覚することもなく、日常の中に埋没してしまう、そういう感じです。

緊張の糸が緩んでいる、そういうことでしょうか。

2012年8月20日月曜日

日本人は状況倫理


こんにちは、大森です。あまりの暑さに気が遠くなっています(笑)

早川先生から「みんなで長い間見て見ぬ振りをしてきた」とのご指摘があり、私自身も「なぜそうなのか?」をずっと考えています。そんな中、先日、NHKで「終戦 なぜ早く決められなかったのか」という特番がありました。

その内容は、日本の陸海軍に欧州数ヶ国の軍からソ連参戦の情報が入っていたにもかかわらず、閣僚会議では軍の責任者はその話を一切しない。天皇が密かにその情報を入手し、軍の幹部に個別に問いただしてもその話をしない。外務大臣もその情報をまったく知らず、外務省の官僚は謀略だといって取り上げない。その結果、原爆は落とされ、ソ連が参戦し、無条件降伏という悲惨な結末を迎えました。

先の大戦時の政府と現在の政府閣僚や東電幹部もまったく変わっていません。ということはこれは反省するしない以前の日本人の生きる型なのではないでしょうか。

西欧人のような宗教や超越した価値による「絶対倫理」ではなく、日本人はその都度、出来事に対応する「状況倫理」なのでしょう。

そのようになった理由は、
●四季に恵まれた自然が富を与えてくれる受動的な生活環境
●絶対的な価値を掲げる責任者を必要としない歴史文化
だと思います。

その型を象徴するのが天皇制で、天皇の役割は自然の秩序と日本人の安寧を祈ることで絶対価値を示すことではありません。

「見て見ぬ振り」というよりは、「目の前に起こっていることをただ受動的に眺めて自然のなすがまま」なのだと思います。たぶんこれは私達の血肉なので、日本人としての歴史が続く限り変わらないかもしれません。

これは、良い悪いを言えるものではなく、外国から稀に賞賛される日本人の美意識を支えるものであるとも思うのですが、いかがでしょうか?