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2011年1月27日木曜日

せっかくの日本語も、回避する人間関係の中で"宝の持ち腐れ"に(後編)

●ぶつかり合いを回避する中で、自分が何者かわからなくなる
この大規模調査から浮かび上がってきた今の子ども像を私なりにまとめてしまうと、「熱心な親との関係の中で"親に心配させないように気を使うこと"を学習し、その結果、周囲の評価に対して過敏になってしまい、ぶつかり合う人間関係を回避してしまうようになっている」というものです。

黒澤先生も、下記のように述べられています(上記のサイトより抜粋)。
「あるいは、子どもが親を心配させない「よい子」として生きる、つまり早期に大人役割をとることで、本音が言えない、自分の本音が何であるかがわからないといった不自由さや不全感をどこかで抱えるかもしれない」
「子どもたちの人間関係がケータイやメール、インターネットにより、広がり深まっている一方で、一度打ったメールの言葉は消えないし、容易に広められることからも、より繊細な気遣いを駆使することが常に強いられているだろう」
「友だちと行動をともにして、直接話したりぶつかり合ったりするよりも、ケータイやメール、インターネットでつながり、友だちの承認の輪から外れないように気を遣い合っている」
「親子関係にも友だち関係にも比較的満足しているが、その背景に、ネガティブな感情をあからさまには表出せず、親密さのなかで傷つかないように、ぶつからないように気を遣っている姿が浮かび上がる」

つまり、「若者たちはぶつかり合いのない育ちの中で、自分が何者かがわからなくなってしまい(アイデンティティコンフューズ、なんて呼びます)、その結果として相手と上手く距離感が取れなくなってしまっている」「きちんと使っているだけで距離感の取り方が上達するはずの日本語も、きちんと使う場面が乏しければ上達して行かない」のではないでしょうか。


最近も、埼玉で「教諭が保護者提訴 「苦情で不眠症に」」
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110118k0000e040049000c.html
ということがニュースになりました。
熱心すぎる親(率直に言ってしまえば、「子どものことよりも自分のことしか考えていないようにしか思えない親」)が、子どもの育ちに介入してしまっているのが、現代の若者の育ちにおいて大きな問題になっているように感じています。このまま、回避する人間関係が続けば、下手をすれば日本語を学んでいる外国人の方が、日本語が母語の日本人以上に関係性の取り方がうまくなってしまうのかもしれません。

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