●ツイッターのもつ素晴らしい力
確かに、これからのメディアを変える可能性を持っているツイッターは素晴らしいツールだと思います。一個人でも素晴らしい情報を持っていれば、大手メディアに匹敵する発信力を持つことができるということは、国家権力による情報統制や世論操作といったことを不可能にすることができ、真のジャーナリズムの確立につながると思います。ただその場合に発信されることは、「つぶやき」ではなく、「熟慮された結果としての言葉」になります。
実は大森さんも言われているように、現在のツィッターは広告として使われている面も多く、それは決して「つぶやき」ではなく、計算されたメッセージです。このような「よく考えた言葉」を発信するならば、私もツイッターをためらいなく使うと思います。ただ、「よく考えずに発した一言が自分の知らない間にどんどん広がって行く」ことに対して、不安を感じずにはいられないんです。
●都市では人々が隔離を求めるので反動でつながりを求める?
以前、電車の車内で化粧を直す女子高生を評して「「公的な空間」という意識がなく、どこでも自分の部屋と同じである感覚を持っている」と評した方がおられました(誰だったかは忘れてしまいましたが)。確かに、昨今は「公的な場所」が減少し、どこでも私的な振る舞いをする方が多く見られるように感じられます。これは、「都市という、狭い空間の中に人々が押し合いへしあい生きていて、私的な空間がぶつかり合ってしまうから」ではないでしょうか?また、「お互いの自己愛がぶつかり合っている」とも言えるかもしれません。
このような、狭い空間の中で互いがぶつかり合うことを避ける装置として、互いの境界を仕切るような住環境(壁の強固なマンション、居酒屋などでの個室志向)が望まれているのかと思います。人は、他者との間に一定の距離を必要とするのは、社会心理学で証明されています。都市の場合、空間の狭さゆえにそれが確保されないので、壁や仕切りを多く作った。しかしその分、他者とのつながりや交わりは希薄になってしまった。それが、「誰かとつながりたい!」という強い欲望につながり、そこから様々なコミュニケーションサービスが生まれている――というように考えられないでしょうか?
●よく考えて言葉を発さない時代になっていいのか
ツイッターへの私の不安は、「それが人々の強い欲望が背景になっているとすると、はたして大森さんの言う「相手に過度な期待をしない」というような節度が守られるのか――ということです。つながりたい気持ちの前に、自制心が働くのかどうか。
もう1つ、「深く考えなくなってしまう」不安もあります。先ほど私は、「よく考えた言葉」を発信するならば、私もツイッターをためらいなく使うと思います」と書きました。ただ、いま多くの方に理解されているのは、「その時の気分、雰囲気を広く伝えるメディア」としてのツイッターでしょう。もちろん、そのようなメディアがあることは否定しませんし、面白いと思います。ただ、それだけになってしまうとしたら――。具体的には、子どもたちが心配です。「よく考えて言葉を発する」ということは簡単ではない面倒なことです。それに比べて、感じたことを言葉にしてそれが広く伝わることがあるとしたら――。子どもたちが「よく考えて言葉を紡ぐこと」から逃げてしまうのではないかと心配になります。鳩山元総理の「軽い言葉」に批判が集まってからまだ時はたっていませんが、ツイッターの言葉の軽さの先に総理の言葉の軽さがつながってしまうのは、私だけでしょうか?
私は、ツイッターを否定はしていません。素晴らしいメディアと思います。ただ、その魅力の強さゆえに、みなが依存してしまい、きちんと考えることや、きちんと目の前の人と向き合うことから逃げてしまう(例えば、ひきこもってつぶやくばかりになってしまう)ことが心配なだけです。何事もバランスであり、様々なメディアの一つとしてツイッターを使いこなすのならば、まったくかまわないことだと思っています。
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