こんにちは。上原です。
前回の早川先生のご投稿の中には、語りたいキーワードがてんこもりでした。「日本の母親が男の子に甘くて女の子に冷たい傾向にある」こととか、未熟な男子とか、晩婚化、少子化……。ぜひ、いろいろ書きたいところですが、話があちこちへ行ってしまいそうですので、そうした話題はまた別の機会にとっておこうと思います。
というわけで、ツィッターやブログのお話に戻ります。この話題についても、早川先生は非常に鋭いご指摘をされていましたね。「ネットの話は、どうも『コミュニケーション強者と弱者』によって違うような気がします」。まったくもってその通りではないでしょうか。自分が言語化できずにもやもやと考えていたことを、ズバリ言い当てられた気がしました。そのあたりの核心にふれる前に、まずは私自身がツィッターやブログをどう感じていたのか、から書かせていただきたいと思います。
もともと、ツィッターやブログがこれほどまでに世の中にあふれている現状について、私はとても違和感を感じていました。ツィッターもブログも、そのもっとも重要な機能は「自分の発言を他者に伝える」だと思います。ですから、ツィッターやブログの利用者に「人々に伝えたいこと」がある場合、上手く使えば非常に有効なツールになるとは思います。たとえば、何か活動をしている、仲間を募っている、ファン同士で集っているなどなど……目的がはっきりしている場合ですね(ちなみ、このブログもそのつもりでやっています)。
私が違和感を感じるのは、上記のようなケースではなく、目的がはっきりしないブログやツィッターの使い方をしている人がとても多く感じられることです。いや、もちろん、どう使って、そこで何を語ろうが自由だし、どこまでが目的があって、どこからが目的がないのか、線引きは難しいのですが、いずれにせよ感じるのは「みんな、よくそんなに気軽に発言できるなあ」ということです。私はこのブログで発言する時、相当気合いを入れて文章を書いています。かなりの気合いが必要なので、そう簡単には書けず、自分の回がまわってきた時には正直気が重くなる時もあるぐらいです。ツィッターは文字数が少ない分だけ気軽に書けると感じる人が多いのかもしれませんが、いくら文字数が少なくても発言は発言ですから、私はなかなか気軽に書く気になれません。
ここで、まず一つキーポイントになっていると感じるのは、ツイッターやブログは、自分がどこの誰か、あいまいにしたままでも発言できるということです。匿名であれば、発言は気楽にできますから。もう一つは、「話し言葉」と「書き言葉」の問題があると思います。ツイッターやブログは「文字」ですから、「書き言葉」です。しかし、実際には話し言葉の感覚で書かれていることが多いと思います。本来、話し言葉はその場で消えていきます。衝動的に気持ちを口にすることは誰にでもあります。でも、文字にしてしまうと、その時どんなに軽い気持ちで書いたものであっても、削除するまでは確実に残ります。その分、やはり重みがあると思うのです。しかし、そうした書き言葉特有の重みと、話し言葉の軽さとが、ここへきて渾然一体となってしまい、書く方も読む方も、上手く使い分けることができなくなっているのではないでしょうか。
もう一つは自己愛の問題です。以前大森さんが「ツィッターには自己愛が満ちている」という名言を残していますが、確かにそう感じます。日々、ツィッターを眺めてみると、全部ではないのですが、どうも「私を知って!」「私の声を聞いて!」という叫びが聞こえてくる発言が多い気がしてなりません。そういう「気持ち」を持つこと自体が悪い、というわけではないのですが、そうした気持ちをアピールする時は、やり方を間違えると実に一方的で利己的なコミュニケーションになりがちです。ですから、もともと現実の世界でもコミュニケーションに長けている人がツィッターを使うのと、実際にはコミュニケーションが苦手な人が使うのとでは、その使い方やそこから生まれてくる関係性・成り行きに大きな違いが出てくるのではないでしょうか。また、本来、日々のコミュニケーションがうまくいっている人は、そもそも改めてツィッターで「私を知って!」と叫ぶ必要性を感じること自体、あまりないんじゃないだろうか、という気もしています。
と、つらつらとツィッターとブログについて感じることを書かせていただきましたが、みなさんはどう思われますか?
2010年9月11日土曜日
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