「子どもって、とっても異質な存在です」という、とても興味深いご発言が早川先生からありました。小生には子供がいないので実感が無いのですが、お子様をお持ちの早川先生が、血がつながっている(まさしく遺伝子を引き継いでいる)お子様を「異質な存在」と感じる(笑)。本当に親の心というのは複雑かつ不思議ですね。
他者や異質なものを受け入れるためには「寛容」でなければならないでしょう。
寛容であるということは、
1)受け入れるだけの環境がある
⇒思想的、経済的、文化的などなど
2)異質なものがどのようなものかある程度理解できる
⇒まったく理解不能な相手には恐怖のみで受け入れることができないでしょう。
まず、1)の環境については、育児や教育、そこそこの常識(教養)があれば何とか子供を受け入れることができるでしょう。これは親が頑張って仕事したり、家族について先輩に意見を求めたり、勉強すれば何とかなるかもしれません。
(ポストモダン以降の価値基準の不在という、大きな問題もありますが)
2)の異質なものを理解できるというためには、その異質なものとのコミュニケーションが成立っている必要がありますね。
まず異質なものを受け入れることができないということはコミュニケーションの不全。
親子のコミュニケーション…難しいですね。
単に一緒に遊んだり会話すればよいということでもないでしょう。
これこそが血(遺伝子)がつながっていても相互理解が難しい現代人の悩み。
1)の環境については親が作ってしまうので、そこには嫌でも親の価値基準が存在してしまいます。これが子供にとっては嫌であれば逃げるか、嫌でないのであればその環境と関わっていく、ということになると思います。
今の日本は親の価値観にそぐわない子が家から出ても生きる場がないのが問題かもしれません。中卒でも働いて当然という価値観や働ける場所が実際にあったりサポートしてくれる共同体があったりすると、そのような子は助かるかもしれませんね。
親のほうは出て行く子供は価値基準が違うのだということで、諦めることを知ることかなぁ…老後の面倒を見てもらいたい親にとっては、とても難しいかもしれませんが。
2)の異質なものとのコミュニケーションは、言葉そのものが一人ひとりイメージや理解することが違うので、寸分違わずお互いを理解することは親子であろうと不可能でしょう。よって、そこそこ相手の言うことがわかるまで根気よくコミュニケーションする訓練をする必要があるかもしれませんね。
また小生の経験からすると、父親や兄貴とよくキャッチボールをしました。怒られた後や悲しいことがあったとき、理由はわからないけど無性に腹が立つとき、言葉ではなくボールを投げあうキャッチボールの効果や効能はありましたね。
言葉だけではなく身体を伴うコミュニケーションも必要かもしれません。
でもいまは、近所の公園も危険だということで野球禁止なんですよね…自分たちが「安心」「安全」を欲しがりすぎて自分の首を絞めているのかもしれません。
ことほどさように問題は自分の家族と隣の公園の規則や使い方まで複雑に事情が絡み合っています。解決の糸口ってあるのかなぁ…答えになっていなくてスミマセン。
2010年3月17日水曜日
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