こんばんわ。早川です。
だいぶ暖かくなってきましたね。
気温の上昇につれて、こちらの更新頻度も上げていきたいですね。
ただ、じっくり考えたい内容になってきたので、難しいところです。
さて、2月26日に私は「子どもは誰のものなのでしょうか?親のものなのでしょうか?」という問いをお2人に投げかけました。そして、お2人から問いに真剣に向き合った答えが返ってきました。そのおかげで、とても見通しがよくなったように思います。
お2人も、そしてこれを読まれた方もお感じかもしれませんが、実は私の問いは問い自身が問題を抱えています。
そもそも「○○のもの」という表現がおかしいんです。子どもは物じゃない。心を持った人間です。
でもその一方で、「物扱い」されているように感じてるときがあります。
ここに、子どもにまつわる大きな問題が潜んでいると思います。
お2人は、「親子関係(あるいは家族関係)」という情緒的なことと、「国家などの公的なもの」「社会」といった制度的(理性的)なことの間で揺れる気持ちをそれぞれに表現されたように思います。
大森さんは、「「子供は社会のものである」と答えたいのですが、あまりにもきれいごと過ぎる」「現在いまの家族はあまりよい意味ではなく「子供は親のものであり、親は子供のものである」ように思えます」と書かれています。これは、「子どもは社会的な存在である、という建前になっているけれど、やっぱり親子の関係は大事。でもそこがうまくいっていないから、結果としてお互いに利用しあうような関係になってしまっている」ということかなあ、と思いました。
上原さんは、「「子供は社会のもの」と、言いたいところですが、実際にはやはり「親のもの」になっているし、そしてそれは、言ってしまえば当然のことのような気がします」「理想を言えば、社会的な意味で子供の自立を促し、ある意味突き放し、それを見届けるのが、親の大事な仕事だと思います。でも、頭でそれがわかっていたとしても、実際にはなかなか難しい」と書かれています。これも、「子どもを社会的に自立させるのが親の仕事だとは理性的には思うけれど、実際にはそんなに理性的にふるまうのは難しい」ということかなあ、と思いました。
つまり、お2人とも表現されたことは、「親の気持ちを無視して理想ばかり言っても無理だよね」ということではないかと思います。
そのとおりだと思います。
先ほど、「子どもは物じゃない。心を持った人間です」と述べました。
同じことは親にも言えます。「親も物じゃない。心を持った人間です」。
心が尊重され大事にされなければ、心は物のようになってしまいます。
そして、心が物にならないためには、余裕が必要です。
上原さんの言われた「やっぱり子供は自分の手の中においておきたい、かわいがりたい、子供の意志よりも自分の希望を尊重したい」という親の気持ちと、虐待をする親の気持ちは、かけ離れているようでそう遠くないように思います。どちらも心に余裕がないのではないでしょうか?
以前、ゆとり教育というものが提唱され、結局逆戻りしていきました。
あれは、「親にゆとりがないのに、子どもがゆとりを持てるはずがない」ということだったのではないでしょうか?
つまり、「子どもが物のようになっている裏側には、心にゆとりをなくして物のようになっている親がいる」ように思えるのです。
では、またお二人に質問です(今回は愚問ではないです)。
なぜ、心はゆとりをなくしてしまったのでしょうか?
硬くなった心がゆとりを取り戻すにはどうしたらよいのでしょうか?
2010年3月17日水曜日
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