こんにちは、上原です。
さすがに年末は忙しいですね。
ここのところ、書き込みの頻度が落ちており、どうもすみません。
さて、前回の書き込みで早川先生より「最近の子供は言語よりも画像処理にたけている傾向にある」というおはなしがあって、「それが今のような高度情報化社会を生きる上では、生存に有利なことなことなのかもしれない」と書かれていました。
そういう意味では「生存に有利な能力」というのは、その時代時代によって、変わってくるわけです。言うまでもなく、大昔は何よりも「強靭な体力」こそ、もっとも「生存に有利」な能力だったでしょうし、ごく最近まではたとえば数字に強い人が「生存に有利」だったのかもしれません。
そして近年は、とにかく「効率よくものごとを処理する能力」こそ、「生存に有利」な世の中になっている気がしてなりません。もちろん、そればかりではなく、芸術も文学も哲学も倫理的なことも、ないがしろにされているわけではなく、それなりに価値を認められてはいるのですが、そうは言っても結局は「効率が一番」の方向に流れている感が否めません。
そんな世の中で育っていくと、子供たちは「結局、与えられたテストをすばやく正確に解いていくことがもっとも評価される」と思って育ちかねないわけで……。このままでは、悩んだり、立ち止まったり、回り道をしたり、自分なりのやり方を考えたり、人の気持ちを考えてみたりすることの大切さが、次第に薄れていってしまいます。
考えてみると、こうした危惧は何も今はじまったことではなく、すでに戦後の高度成長期の頃から言われていましたね。
そうは言っても、何かを生産することで経済がまわっていく現代では、「効率」が重んじられるのは当然のこと。だから、「効率を上げる」ための教育だって、全面的にに否定はできません。さしあたっての問題は「効率があまり良くない」子供や大人であっても、ちゃんとその人なりに生きていける場がある社会なのか、受け入れられる思想を持った社会なのかということ。
残念ながら、先々を考えると、不安でなりません……。
2010年3月17日水曜日
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