大森さんの投稿にあった、「死に型を決めておくこと」の部分を読み、「尊厳死」の問題を思い出したので、少しふれておきたいと思います。
まったく個人的な気持ちの問題で言うと、私自身が病気になったらむやみに延命治療せず、死んでいきたいと(少なくとも今は)思っています。「尊厳死」法制化については以前から議論されていますが、そんなわけで、私は基本的に法制化賛成派でした。
しかし、国立病院機構新潟病院の中島副院長のご意見を以前新聞で読んで(産経新聞平成18年2月2日)、単純に賛成できないのだなと、はじめて反省しました。少し古い記事ですが、概要だけご紹介しておきます。中島医師は、尊厳死の法制化に反対する理由を以下のように述べていました。
「私たちの病院には、ALSなど人口呼吸器を使用している患者が約60人入院していますが、彼らは人生にたいへん前向きです。しかし時に、(中略)人生を悲観して、『死にたい』という言葉を口にすることがあります。でもよく聞いてみると、本当に死にたいと思っている人は誰もおらず、みな心の奥底では生きることに希望を持っています。死にたいという言葉は、生きづらいという患者の心の叫び。もっと私を助けてほしいというサインなのです。尊厳死法が成立すると、あなたが死にたいというならどうぞ死んでください、ということになってしまい、周りの理解やサポートさえあれば心の奥底では生きたいと思っている患者までもが、不本意に死んでしまう社会になってしまいます」
それぞれが死に型を決めることは、ある意味、生き方を決めることと同義。まったく難しい問題です。
2010年3月16日火曜日
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