心の病は、社会の病。

みんなが幸せに生きていけるように、より良い社会を求めて。

2016年3月9日水曜日

聞く人、とくに力が強い人に必要なこと。

こんにちは。大森です。

寒いのか暑いのかわからないような不安定な日々が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

さて、早川先生からSNSによる自由な発言(言語化)の可能性と上原さんの言語化における感情の発露の難しさについてご意見がありました。

合理的に伝えたいことと感情の表現を両立させることは難しいですよね、しかし、最近興味深いことがSNSで起こりました。

それは「保育園落ちた日本死ね!!!」です。

衆議院の予算委員会でもとりあげられて自民党議員から独特の反応が出たのですが、この匿名ブログの書き込みがSNSで拡散され同じ境遇にある人達がそのメッセージの意味と感情に共感して国会前でデモをしました。

権力や利権がある側は「現実として財源や人材が足りない…」と言ってしまえばやり過ごせるのでしょうが、弱い立場で権力や利益に関われない人たちは益々やりきれない気分になってしまいます。

言語化や発言におけるSNSでの共感や感情を無駄にしないようにするには、聞き取る側の「感受性」が大切でしょう。

個人的には倫理的な善悪も合理性ではなく感情に起因し、納得するためには感情が大きく影響すると思うのです。

子と親、生徒と教師、社員と役員、国民と議員、立場が強い側こそ感受性を発揮していただきたいと切に願います。

2016年2月21日日曜日

「表現の自由の保障」としてのSNS

こんばんは。早川です。
私も多忙にかまけて間が空いてしまい、申し訳ありません。
さて、このところ「言語化をしていくことの必要性」をしばらく話してきましたが、つまるところこの問題は憲法では「表現の自由」や「精神の自由」と呼ばれるものと思います。いかなる形のものであろうとも、表現の自由を保障しなければ、私たちは弱者の苦しみや強者の不正を知ることができなくなるかもしれません。知ることができなければ、問題として扱うこともできない。だからこそ表現の自由は徹底的に守られなければならない。これが憲法における表現の自由の考え方です。
対して、上原さんの言われた「表現しても無視される」ということは、「聞く気のない強者は、弱者の表現を無視する」ということかと思います。一方で大森さんが例として出された「以前であれば相対(あいたい)の関係ではなく、第三者が入って解決しました」ということは、「聞く気のある第三者が聴いて仲裁した」ということなんだと思います。
表現は「聞く気のない強者」に対して行っても伝わらない。しかし、広く表現すれば、必ず「伝わる人がいる」。
私が怖いのは「表現が摘み取られること」、つまり密室です。ウィキリークスやセンテンススプリングではありませんが、SNSの発達した現代であれば、伝われば誰かが反応します。
SNS空間は確かにデマや人を傷つける言葉もあふれていて問題が多いですが、それを補って余りある「表現の自由の保障」があると思います。
最近のマスコミへの政治による圧力を見るにつけ、表現の自由を私たちに保障してくれるものとしてのSNSの偉大さを感じています。

2016年1月1日金曜日

言語化の限界について

あけましておめでとうございます。
上原です。

すっかり、書き込みが遅くなってしまって、申し訳ありません。
昨年は秋から妙に忙しく、ようやく、元旦になって、ゆっくり物を考える時間ができました。

なんというか、「忙しさ」というのは、単に時間の問題ではないんですね。1日に30分ぐらいの時間、がんばれば作れないはずは絶対にない。でも、「忙しい」というのは、「時間」ではなく、「気持ち」の問題なんですね。つまり、忙しくなっているその要因は、「仕事の量」ではなく、「仕事の質」にある。そして、仕事の質によって気持ちに余裕がなくなると、いくら時間があっても、人は多忙感を拭い去れない……。

長い言い訳のようになってしまいましたが(笑)、そんなことはさておき、「言語化」について、話を進めてみたいと思います。

早川先生と大森さんから、「言語化と力の関係」の書き込みがあり、とても興味深く思いました。言われてみれば確かに、「いくら言語化しても伝わらない」ことの理由に、「情緒的」な問題とは別に、「相手の力があまりに強すぎると言語化しても伝わらない」、ということはありそうですね。

でもそれは、「伝わらない」というより、「無視される」という印象があります。いや、まあ、「伝わらない」と「無視される」の線引きも、難しいところではあるのですが……。

弱者からの「要求」が、強者によって「無視」されてしまうというのは、悲しいかな、確かに致し方ない部分はあるのかもしれません。そして、それを避けるためには、弱者側も「要求」を主張できるように、ある程度力をつける努力が必要なのかもしれません。

しかし、子どもが自殺してしまうような場合、言語化しても伝わらなかったのは「要求」というよりも「気持ち」だった気がします。伝わらなかったのは中学生の辛い、死にたいという「気持ち」であり、「要求」とはちょっと違う。

そう考えると、人の気持ちを扱う職にある人は、やはり、あくまでも、どこか「個人」と「個人」のつながりであるべきなのかもしれません。そして「個人」と「個人」の気持ちのつながりがあれば、もうちょっと相手のことがわかったのではないかと……。

その点をさらに推し進めると、結局「『気持ち』というもものは、所詮『言語化』だけでは伝わらない」という話になってしまうのかもしれないのですね。これぞまさに「言語化の限界」でしょうか。

しかし、現代に生きるわたしたちの、最大のコミュニケーション手段は、やはり言語です。言語を持たない人々や、言語のなかった時代、人間はどうやってコミュニケーションをとっていたのか……そこに、ヒントがある?のだろうか。

いずれにせよ、学校の先生が、生徒ひとりひとりと「個人と個人のつながり」を持つのは、精神的にも時間的にも無理な部分があるのかもしれません。そこをどう考えていくか。やはり、教師にせよ、医師にせよ、仕事の対象が完全に「人間」である仕事は、ほかの職業と同列では語れない大変な仕事なんだなあと、つくづく思うのでありました。

2015年9月16日水曜日

言語化と力の構造

こんばんは、大森です。

早川先生から、いじめによる子どもの自殺について「子どもたちと学校側の力の拮抗がなければコミュニケーションが成り立たないのではないか」というご指摘を頂きました。

言語化とコミュニケーションには常に力の構造が影響しています。世界を見渡してみても韓国政府は国民の感情と意向に、中国当局は共産党幹部の感情と意向に、日本政府はアメリカの感情と意向に、その力の構造に逆らうことはとても困難です。

集団的自衛権と安保法制も国民の安全や憲法との整合性というよりは、アメリカの意向を忖度して「それが現実だからしょうがない」ということで決めてしまう。

興味深いのは、そういう力の構造が現実に存在するかどうかはわからないけれどもあると思ってしまうところ。

コミュニケーションが困難になった場合、以前であれば相対(あいたい)の関係ではなく、第三者が入って解決しました。日本だと経験豊かな長老や良識ある賢者たちだったでしょう、しかし価値観が多様化し複雑化したいまの社会ではそのような人たちの役割がなくなってしまいました。

これから私たちはどのような方法や仕組みで言語化とコミュニケーションを図って行くのがよいのでしょうか、とてもむずかしいです。

2015年8月22日土曜日

言語化を無力にしないための「力の拮抗」

こんばんは。早川です。
さて、大森さんからは「集団的自衛権の議論に絡めて、言語化と情緒・主観的なアプローチの問題」、上原さんは「岩手の中学生男子の自殺を受けての、言語化が受け手に届かなかったこと」を話されていました。
これまで「言語化の重要性」について話し合ってきましたが、言語化では埋められない面がありますね。
・言語化の重要性 異なる考え、文化を持つ人たちで共有していくため。考え方がぶれないため。
・言語化の限界 情緒的なものが抜け落ちがち。伝わらない人には伝わらない。
確かに、情緒的な面が重んじられていると、言語は伝わりにくい。
もう一つ、大きな力関係がある場合、言葉は無力になりがちです。今の国会で言葉のやり取りが無力になってしまうのは、力関係があまりに大きいからでしょう。力で相手を圧迫するのは下品ですが、言葉のやり取りをするためにはある程度の力が必要なんだと思います。
対して自殺の訴えを見逃した学校の場合、学校側と生徒の間に大きな力の差があるのではないか、と思います。生徒が訴えても無力になってしまう。学校と生徒がきちんとやり取りをしていくためには、ある程度の力の拮抗がないと難しいのではないかと思います。

2015年7月11日土曜日

「言語化」が無駄になる悲劇

こんにちは。上原です。

「言語化」についての議論が、再び展開中ですね。

で、早川先生、大森さんの投稿からは少しずれてしまうのですが、どうにも気になったので、岩手県の中学生男児が自殺してしまった問題にふれておきたいと思います。

この事件では、クラスメートからいじめを受けていた男児が、担任の先生との間で交わすノートでいじめを訴えていたにも関わらず、問題が解決に至らず、残念ながら男児は自殺してしまいました。
 
いじめ問題が起こるたびに、私は必ず、高校時代の国語の先生の話を思い出します。

その先生は、「いじめを受けた子が、その子のまわりで何が起きているのか、自分はどう感じているのか、どうしてほしいのかを、ちゃんと言葉にして伝えられるようにしなければならない。私は、そのための国語能力をしっかり子供たちに教えたい」というようなことを、いつも言っていました。

そこには、「いじめを受けた子が、ちゃんと状況や思いを言語化して、周囲に伝えることができれば、いじめの解決につながる」という考えが根底にあったのだと思います。そして、先生から教えを受けた私は、「確かにその通りだ。いじめに限らず、自分のことをちゃんと言語化して、必要なときに訴えることこそ、様々な問題解決につながる」と思っていました。

ところが、です。

中学生男児が、あんなに何度も、口頭ではなく文章という確実に残る形にして、しかも、学校の担任教師に自分の状況を訴えていたのに、問題は解決されず、最悪の形を迎えてしまいました。

教師はいじめた方の生徒たちに注意したこともあったようですが、その後も、男児は「もう限界」「死に場所は決めている」と、まさに言語化してノートで伝えていました。

彼の「言語化」は、受け手に届かなかったのでしょうか。私は、報道で、実際のノートのやりとりを見て、なぜ教師が放っておいたのか、まったく理解できませんでした。

もしかすると、学校側の構造的な問題があるのかもしれません。

教師が忙しすぎる、という問題もあるようです。確かにあのようなノートを、毎日、クラス全員分やりとりするのは、かなり大変なことでしょう。

いずれにせよ、「これはレアケースだ」と、私は思いたいです。

そうでなければ、「言語化しても無駄」ということになりかねません。それではあまりにも救いがない。

それともうひとつ思うのは、訴える側に言語化して「伝える力」も必要ですが、受ける側にそれを「聞きとる力」と「聞き取る意思」がなければ、どうにもならないということです。しかしこちらは、言語能力の問題だけではなさそうで、伝える力以上に、身につけるのが難しい能力なのかもしれません。


2015年6月28日日曜日

言語化の役割

こんにちは、大森です。

本当に久しぶりの早川先生の書き込みで、そのテーマは切実で変わらぬスリリングな議論が今後も続けられることに感激しております(笑)

西欧におけるモハンマド風刺事件は、自らの価値観を他人に押し付けることを野暮とする私(日本人)からすると洗練されておらず垢抜けず「外国の人は困ったものだ」という感覚があります。

憲法論議については、法というものに対する西欧人の客観的基準と日本人の主観的基準の違いが現れていると思うのです。

西欧人は他者との共存のために客観的に参照する基準、それが法であり憲法になる。

日本人は法は客観的に参照するものではなく主観的に解釈する傾向があるように思われます。

私自身もいろんな裁判の判決に違和感を感じることが多く、それは法の論理と主観的感情との差異なのだと感じています。

なので、本来は政府に対する最高規範である憲法ですら日本政府は恣意的に解釈してしまうのでしょう、さて、問題はそこなのです。

今の政府が集団的自衛権の必要性において「現実の危機認識が変化したからだ」と言っています。人間の心が抱く現実と妄想はきっちりと分けられるものではなく紙一重と言ってもいいかもしれません。

この議論は現政府の現実と妄想はどのあたりにあるのか、私たち日本人が現実をどのように認識をしているのかを知るよい機会だと思います。

私は集団的自衛権については、憲法解釈という主観的かつ恣意的な手法ではなく、憲法改正という正当な手段で日本人の現実認識の議論(言語化)踏まえた上で立法を目指したほうがよいと考えるのですがいかがでしょうか。