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2016年4月18日月曜日

SNSは本当に気軽に書き込んでよいものか?

こんにちは、上原です。

さて、ここのところ、「言語化」によるコミュニケーションについての議論が続いております。

大森さんの、「言語化や発言におけるSNSでの共感や感情を無駄にしないようにするには、聞き取る側の「感受性」が大切でしょう」という発言と、「個人的には倫理的な善悪も合理性ではなく感情に起因し、納得するためには感情が大きく影響すると思うのです」という発言には、私も大いに共感します。
そこで、私から改めて付け加えておきいのは、「聞き取る側の感受性も大事だけれど、発信する側の言語センスと覚悟もやっぱり大事だ」ということです。

まあ、このことを言いだすと、話が最初に戻ってしまうのですが、私が近年強く危機感を感じるのは、SNSで見られる「発信する側の人々の無防備さ」です。

SNSというものは、日本語で書けば日本中の人に見られる可能性があるし、英語で書けば英語がわかる世界中の人に見られる可能性があるものです。だから、仲間内だけで見られるようなクローズドの状態でない限り、本来、そうそう不用意に書き込めるものではないはず。そして、書き込むからには、それなりに言葉と表現を選び、それなりの覚悟を持って書くべきだと思うのです。

しかし、一部のSNSは、その「匿名性」や「気軽に書き込めること」が一種の〝ウリ〟になっていますから、誰もが、気分に任せて書き込むことができてしまう。これはやはり、非常に危険なことではないでしょうか。

逆に言えば、書き込み方がキャッチーで人目をひくものであれば、それは一気に世の中に広まっていき、その言葉がひとり歩きをはじめます。

「保育園落ちた日本死ね」も、広い意味ではその一例ではないかと私は思っています。もちろん、この言葉の書き手は、「保育園に落ちたことで、国に対して相当に腹を立てている」ことは間違いないし、「保育園が足りなくて、子育て世代が困っている」ということを日本中に発信する、という意味では、「成功した」と言えるでしょう。

これが、「保育園落ちた。日本はどうなっているんだ」とか、「保育園落ちた。むかつく」だったら、どうだったでしょうか。おそらく、たいして広がることはないでしょう。「日本死ね」。この言葉があまりにも衝撃的であり、かつてない表現だったので、ここまで世の中に広がったのではないでしょうか。

この件に関しては、それはそれで良かった部分もあるのかもしれません。でも、SNSに発したひとことが、表現次第でここまで世間的に大きな問題になることがある、という一例として、心に刻んでおく必要はあるように思います。

そういえば、熊本の大地震に乗じて、悪質なデマをSNSに流すヤカラがいるそうですね。こういう人たちは、まさに、「人目をひく表現」でSNSの持つ発言力を悪用した一例といえるでしょう。だからと言って、規制はできない。難しい問題ですね。社会はまだまだ、SNSとの向き合い方を習得できていないとしか、言いようがありません。

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