心の病は、社会の病。

みんなが幸せに生きていけるように、より良い社会を求めて。

2017年3月27日月曜日

がんばれ、アメリカ国民。

こんにちは。上原です。

トランプ大統領誕生を受けて、早川先生にしっかり投稿いただいたにもかかわらず、それを受けての書き込みがすっかり遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。

書き込みにあたり、早川先生の投稿をしっかり読み直してみたのですが、あまりにも納得のいく内容で、正直なところ、この件について、これ以上言うべきことはもうないかも、というほどの気持ちになってしまいました。

でも、それではあんまりなので(笑)、少しだけ補足を試みてみたいと思います。

思い起こせば、アメリカの全国民が参加する選挙でトランプ氏が選ばれたときには、本当にがっかりというか、びっくりしました。しかし、早川先生がおっしゃる通り、トランプ氏が選ばれた背後には、格差の問題がある。格差があそこまで広がっていなければ、トランプ氏を支持する票があそこまで伸びることはなかったでしょう。

そして、これまた早川先生がおっしゃる通り、アメリカで格差が広がったことについては、トランプ氏の責任ではない。少なくとも、あの時点では。むしろ、前政権であった民主党に、責任はある。

そう考えると、「クリントン氏が選ばれれば良かった」という単純な話でもないわけで、本当の問題はトランプ氏そのものではない、ということに、改めて気づかされます。

早川先生は、「成熟した真の民主主義とは、『悪者がリーダーであっても、圧力をかける形で結果的によい政治をさせてしまう政治』だと思います」と書かれていました。そうした意味では、ここへ来てアメリカ国民は、少しずつ、トランプ氏に良い意味での圧力をかけ始めているようにも見えます。

就任当初、半数を超えていたという支持率(そのこと自体、驚きでしたが)は、その後じりじりと下がり続け、最近では支持率37パーセント、不支持率58パーセントと(CNN.co.jp 3/21)、不支持が支持を約20パーセントも上回ってきました。

ざっくり言ってしまえば、「メキシコとの国境に壁を造る」という発言も、「イスラム圏国の入国禁止令」も、アメリカのみなさんは「やっぱり、それはよろしくないだろう」と感じた方が多かったということでしょう。

就任以来、日本で聞いていても、「おいおい、それはないだろう」と思うようなことを、次々と言ってのけてきたトランプ大統領でしたが、結局、壁の話も、入国禁止令も、オバマケア代替案の件も、どれも本人の思うようには進まなくなってきました。「国民に反対している人が多いからやめた」という単純な図式ではないとはいえ、トランプ大統領の思うように物事が進まないことの裏側には、やはりアメリカ国民の意志が働いているはずです。うーん、「がんばれ、アメリカ国民」。思わず、そう叫びたい気持ちになりますね。

トランプ大統領が今後どんな展開を見せるか、まだまだわかりませんが、早川先生が書かれていたようにアメリカの民主主義が成長していくことで、トランプ大統領が「本当はやりたくないけれど、人々のために良いことをやってしまう」、そんな方向に、少しでも動いていくことを祈るばかりです。トランプ氏が大統領になったことで、アメリカの民主主義の力が試されている、といえるでしょう。

まあ、もちろん、「人々のために良いこと」といっても、アメリカ国民のために良いことが、世界の人々のために良いこととイコールではないわけではありますが……。

と、人の国の話ばかり書いてきましたが、我が国の国会で現在盛んに繰り広げられている論争をのぞいてみると、「なんだかな~」という気分になります。

どうでもいい話だとは思いませんが、国会で議論すべき話は、もっとほかにいろいろあるような気がするんですけどね……。

2017年1月25日水曜日

依存型の政治と、自立型の政治

こんばんは。早川です。私の書き込みに対して上原さんとメールでやり取りをしていて、私の書いた内容をぜひブログに載せた方がよい、となったので、引き続いて私が書き込ませていただきます。

前回の書き込みから時間がたち、実際にトランプ大統領が就任し、連日以前では考えられなかったような決断が下され、その度に世界中で大騒ぎになっています。私は前回の書き込みに書いたように、「威勢が良く中身がない言葉は、結局信頼を目減りさせるだけ」になると思っています。

私は基本的にトランプさんの考えや、彼のやっていることは支持しません。基本的に無茶苦茶でひどいもんだと思っています。ただ、貧富の差が広がり、エスタブリッシュメントが固定化している現状に怒りを抱く人たちが多いことも、全く理解できます。トランプさんが大統領になって格差が小さくなるとはとても思えないですが、現在の格差の拡大がこれまでのオバマ政権下で起こったことは事実で、トランプ大統領のせいでは(現時点では)ないのも事実です。

私は「人々が選んだのだから、これが民主主義だ」と悟り顔で言いたいわけでもありません。彼が選ばれたことは間違った選択だったと思っています。ただ、「昔はよかった」的な発言に違和感を覚えるだけです。一体、いつの昔に、「真の民主主義」があったのか。トランプさんの手法がポピュリズムと言われますが、ポピュリズムではなく行われた選挙がこれまで主流だったのでしょうか。

日本の小泉旋風や民主党が政権をとった選挙、大阪維新や昨年の小池都知事のブームは、ポピュリズムではなかったのでしょうか? トランプさんのポピュリズム的手法が批判を浴びますが、「ヒラリーさんのビックデータを駆使したやり方や、選挙資金をたくさん集めることが勝利に繋がる、という考え方は批判の対象にはならないのか」と思ったりもします。それは「お金を使うことで大衆を扇動している」ことではないでしょうか。なんとなく、「インテリが認めたやり方はポピュリズムではないけれど、インテリがコントロールできないものはポピュリズム」という判断基準がマスコミ側にあるように感じてしまいます。

真の民主主義は、ポピュリズム的手法にも、ビッグデータを活用した方法にも、決して流されないような、もっと地道なものだと思うのです。トランプさんはわかりやすい悪役だけど、ヒラリーさんを初めとした左翼インテリ層の手法も、それはそれでポピュリズム的な面を持っていて、トランプだけ悪者にするような捉え方は安易に思えます。むしろ、「国民はいまだポピュリズムに左右されてしまう面があって、今の民主主義の方法では、ポピュリズムを無視して政権担当できない」というのが現在の真実ではないでしょうか。私には、今の政治は「依存型の政治」に思えます。つまり、「権力者に任せておけばなんとかしてくれるよ」というものです。でも、人々がこの考え方である限り、ポピュリズムから自由になれないでしょう。

私には、民主主義は未だ発展途上で”青年期”のようなものなのだと思います。では成熟した真の民主主義とは、「悪者がリーダーであっても、圧力をかける形で結果的によい政治をさせてしまう政治」だと思います。それは、依存型の政治に対して、自立型の政治と言えると思います。つまり、権力者に依存していないわけです。例えて言えば、本来はかなり右寄りの考え方の安倍首相に、安保法制を通させてしまったのは民主主義の失敗で、韓国との和解や真珠湾訪問といった本来はやりたくないであろうことを実行させたのは民主主義の成功のように感じるのです。

特定の政治家に依存するのではなく、彼らに圧力を加えながらコントロールしていくのが、成熟した民主主義の在り方ではないか、と考えています。トランプさんを当選前から支持していた投資家ピーター・ティールは、「変わらないままの方がこわい」と語っていました。インタビューの全文を読むと、ティールは「変化の中でよい方を選択していく」という考えを持っていることがわかります。
https://newspicks.com/news/2015176/body/?ref=user_727371

そういう意味では、これからのトランプさんのやることに対して、アメリカ国民やメディアが圧力をかけて、トランプさんが本来したくないであろうことをさせていけるかどうか、を見守っていきたいと思います。

2016年12月31日土曜日

エスタブリッュメントのおごりと、権力への依存からの脱出

ごぶさたしております。早川です。今年も今日で終わりで、明日からいよいよ2017年ですね。年の瀬に今年を振り返ってみたいと思います。
大森さんからは「エスタブリッュメントの人も含めて皆不安になり感情的になっている」という話、上原さんからは「トランプ次期大統領が選ばれたこととブレグジットの話から、皆が自己中心的になっていくことへの不安」が述べられていました。
確かに、今年は理性よりも感情的なことで政治が動いたことが多くあったように思えます。年末には、オックスフォード英語辞典が今年の単語に「ポスト・トゥルース(真実)」を選んで話題にもなりました。ポスト・トゥルースとは「世論形成において、客観的事実が、感情や個人的信念に訴えるものより影響力を持たない状況」とのことで、つまり「人々が本当のことよりもウソでも威勢のいい言葉に流される現象」のことですね。
こうした現象を危惧する言葉をよく耳にしますが、私はあながちそうとも言えないのではないかと思うのです。
というのも、世論が感情や個人的信念に訴えることに流されたのは今に始まったことではないと思うのです。例えば、60年と70年の安保闘争や、激しい労使間の闘争は、まさに感情的な出来事だったと思います。ただ、これらは常にエスタブリッュメントの側が勝利してきたように思います。しかし、今年はエスタブリッュメントの側が敗北したという面もあるのではないでしょうか。
思えば、イギリスのEU離脱も、トランプ現象も、当初はエスタブリッュメント側の人々は「あんなものはどうせ消えていく」と考えて、たかをくくっていたように思います。しかし、そのようなおごった気持ちこそが、エスタブリッュメントへの信頼を減少させていったのではないでしょうか。イギリスのEU離脱においてはEUの官僚のおごり、トランプ現象ではワシントンの官僚のおごりですね。
一方で、人々もこれまで「エラい人に任せておけばいい」という権力への依存があったのではないでしょうか。しかし、権力は監視していかなければ、油断をし歪むのは当たり前のことです。今回のことは「人々が権力への依存をやめ、監視の目を強めた」ことの始まりのように思います。
もちろん、いずれの選択も今後を考えれば前途多難ですし、上手くいかないことや失望も多くあると思います。以前も述べたように、私は「威勢が良く中身がない言葉は、結局信頼を目減りさせるだけ」と思っているので、来年は中身のない言葉が明らかになれば信頼は減少していくでしょう。しかし、「人々の怒りは政治を動かしうる」という体験は、今後の政治を考える上で大きなターニングポイントになるのではないかと思います。

2016年11月23日水曜日

トランプ大統領が選ばれる時代

みなさん、お久しぶりです。上原です。

ずいぶんと間が空いてしまって申し訳ありませんでした。

その間に、世の中では、大変大きな変化がありました。そうです。アメリカの次期大統領に、トランプ氏が選ばれた、ということです。

私は政治にも世界情勢にもあまり詳しくないので、あまり偉そうなことは言えないのですが、それにしても、今更ながら、あの人物が大統領に選ばれてしまったことには驚きを隠せません。

彼の問題発言を挙げればきりがないですし、また、それらがどこまで本気であったのかもよくわかりませんが、私がもっとも気になるのは、「アメリカのことだけを考えよう」という思想です。

そりゃあ、国策というものは、自国の利益を最優先に考えるのがある意味当然ですが、そうは言っても、限度というものがあります。次期大統領が本当にアメリカのことだけを考えた政策をとるのであれば、アメリカはただの我がまま大国となっていくのではないのか……。

とにかく、トランプ氏が大統領に決まって、私は惨憺たる気分になったのですが、これと似たことが、数か月前にもありました。

そうです。イギリスのEU離脱です。

こうした世界的な動きを見ていくと、どうしても世の中は「自己中心的」「自分たちさえよければそれでいい」という方向に動いている気がしてなりません。

そしてそれは、「自分たちのことしか考えられなくなる」ほど、人々に不満がたまっているからともいえるでしょう。

今の世の中、人々にそこまで不満がたまってしまった理由は、いったい何なのでしょうか。

資本主義の限界? 

いや、こんな難しい問いかけの答えは、私にはさっぱりわかりませんが、とにかく、世の中があまりよろしくない方向に向かっているであろうことだけは確かな気がして、不安が募ります。

そしてこの「不安」がまた、人々を「自己中心的」考えに走らせてしまうのかもしれません。

先日、ネットのアンケートで、「日本も、アメリカのように、自国のことだけを考えた政策をとるべきか」というものがありました。

私は、「さすがに日本人は、この問いに対してNoを出すだろう。まあ、3対7ぐらいかな」と思っていたのですが、結果を見て驚きました。約7割の人々が、「日本も自国のことだけを考えた政策をとるべき」と考えていたのです。

事態は思っている以上に深刻なのかもしれません。落ち着いて考え、行動していきたいと思っております。

2016年9月13日火曜日

不安で感情的になるのも仕方ないような…。

こんにちは、大森です。

早川先生から、「人間にとって長期的な安定した信頼感は重要なもの、しかし社会は長期的な利益を待つことに耐えられなくなり短期的な利益を安易に求めてしまう」という言うご指摘がありました。

なぜ私たちの社会は目先の利益や成果を求めるのでしょうか?

多くの企業が過去最高益で内部留保も最高額の数百兆円と言われています。数字だけ見れば余裕のある生活ができてもよさそうなものですが、なぜか実質賃金は上がらず世の中には停滞感や不公平感があります。

大手中小企業ほとんどの経営者が「災害、テロ、社会動向、業績不振など不測の事態に備えるには内部に資金を持っていなければならない」と言っており、社会のリーダー、トップにいる人達でさえみんな不安でしかたがないようです。

このような状況では、私のようなものが大きな不安を感じて情緒的になってしまうのは、しかたがないことだとも思ってしまいます。

イギリスが離脱したEUも選ばれし役人が特権的な制度をつくっていたり、アメリカもオバマケアは結局は中産階級の負担が大きくなってしまったり、リーダーの資質と言うよりは、リーダーも支持階級であるエスタブリッシュの権益を守らなければその地位を得られない、といういまの社会の仕組みが情緒的なものを生み出していると思うのです。

今こそ経済や社会においてルールセッティングする側のエスタブリッシュの人々に、本当に頑張っていただきたい。

しかし、エスタブリッシュは「自己評価が高い人達」でなければその地位を目指すことはなく、自己評価が高いということは、先般、東京大学の男子学生の強姦事件で「他の大学の女子学生は頭が悪いから」という発言や、相模原殺傷事件の犯人の言葉「役に立たない人間は不要だ」という感覚にも親和性があると思うので…やっぱりあまり期待できないのかなぁ…というのも正直なところです。

暗い話ですみません、でも文明って自然災害などではなく、こういうところから滅んでいくのではないだろうかと思ってしまうのです。

2016年8月29日月曜日

目先の結果を得るために情緒を動かす言葉に頼って、信頼を目減りさせること

ごぶさたしております。早川です。
多忙にかまけてまた間が空いてしまい、申し訳ないです。
さて、「言語化して伝えていくことの大切さ」や「無防備なSNSによる発信」といったやりとりをしている間に、日本では参議院選挙と都知事選挙があり、アメリカでは大統領候補が決まり、リオオリンピックも終わりました。一つ一つの出来事に多くの注目点がありましたが、私にとっては「言葉によるメッセージで情緒的に動かされること」について、いろいろと考えさせられることが多かったです。
都知事選挙では、そもそも舛添前知事が辞任に至る経緯が「不用意な発言に人々が情緒的に動かされた結果」だったと思いますし、候補者の発言もさることながら、猪瀬元知事による都議会の内情の暴露も選挙戦に影響を与えたように思えました。
アメリカ大統領選挙でも、トランプ候補の激しい言葉に共和党の他の候補者は破れていきましたが、今度はその激しい言葉ゆえにトランプ候補自身が窮地に陥っているように見えます。
上原さんは「SNSで見られる発信する側の人々の無防備さへの危機感」を述べられていましたが、どうやらそれはSNSだけではなく、政治レベルでも起きていることなのではないでしょうか。言葉により情緒を動かすことは短期的には有利でも、それゆえに状況の流動性が増し、結果的に自分の首を絞めることになってしまう。そんな様子は私には「目先の利益に捉われて、信頼を目減りさせている」ように見えます。
今のような短期的利益が求められる時代には、安定した信頼感なんていうものは大切にされないのかもしれませんが、子どもを育てる仕事に関わっているとやはり人間にとって安定した信頼感は重要なものです。長期的な利益を待つことに耐えられなくなり、目先の結果を得るために安易な言葉にすがってしまうことがこのところ続いているように、私には感じられました。

2016年4月18日月曜日

SNSは本当に気軽に書き込んでよいものか?

こんにちは、上原です。

さて、ここのところ、「言語化」によるコミュニケーションについての議論が続いております。

大森さんの、「言語化や発言におけるSNSでの共感や感情を無駄にしないようにするには、聞き取る側の「感受性」が大切でしょう」という発言と、「個人的には倫理的な善悪も合理性ではなく感情に起因し、納得するためには感情が大きく影響すると思うのです」という発言には、私も大いに共感します。
そこで、私から改めて付け加えておきいのは、「聞き取る側の感受性も大事だけれど、発信する側の言語センスと覚悟もやっぱり大事だ」ということです。

まあ、このことを言いだすと、話が最初に戻ってしまうのですが、私が近年強く危機感を感じるのは、SNSで見られる「発信する側の人々の無防備さ」です。

SNSというものは、日本語で書けば日本中の人に見られる可能性があるし、英語で書けば英語がわかる世界中の人に見られる可能性があるものです。だから、仲間内だけで見られるようなクローズドの状態でない限り、本来、そうそう不用意に書き込めるものではないはず。そして、書き込むからには、それなりに言葉と表現を選び、それなりの覚悟を持って書くべきだと思うのです。

しかし、一部のSNSは、その「匿名性」や「気軽に書き込めること」が一種の〝ウリ〟になっていますから、誰もが、気分に任せて書き込むことができてしまう。これはやはり、非常に危険なことではないでしょうか。

逆に言えば、書き込み方がキャッチーで人目をひくものであれば、それは一気に世の中に広まっていき、その言葉がひとり歩きをはじめます。

「保育園落ちた日本死ね」も、広い意味ではその一例ではないかと私は思っています。もちろん、この言葉の書き手は、「保育園に落ちたことで、国に対して相当に腹を立てている」ことは間違いないし、「保育園が足りなくて、子育て世代が困っている」ということを日本中に発信する、という意味では、「成功した」と言えるでしょう。

これが、「保育園落ちた。日本はどうなっているんだ」とか、「保育園落ちた。むかつく」だったら、どうだったでしょうか。おそらく、たいして広がることはないでしょう。「日本死ね」。この言葉があまりにも衝撃的であり、かつてない表現だったので、ここまで世の中に広がったのではないでしょうか。

この件に関しては、それはそれで良かった部分もあるのかもしれません。でも、SNSに発したひとことが、表現次第でここまで世間的に大きな問題になることがある、という一例として、心に刻んでおく必要はあるように思います。

そういえば、熊本の大地震に乗じて、悪質なデマをSNSに流すヤカラがいるそうですね。こういう人たちは、まさに、「人目をひく表現」でSNSの持つ発言力を悪用した一例といえるでしょう。だからと言って、規制はできない。難しい問題ですね。社会はまだまだ、SNSとの向き合い方を習得できていないとしか、言いようがありません。