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2016年2月21日日曜日

「表現の自由の保障」としてのSNS

こんばんは。早川です。
私も多忙にかまけて間が空いてしまい、申し訳ありません。
さて、このところ「言語化をしていくことの必要性」をしばらく話してきましたが、つまるところこの問題は憲法では「表現の自由」や「精神の自由」と呼ばれるものと思います。いかなる形のものであろうとも、表現の自由を保障しなければ、私たちは弱者の苦しみや強者の不正を知ることができなくなるかもしれません。知ることができなければ、問題として扱うこともできない。だからこそ表現の自由は徹底的に守られなければならない。これが憲法における表現の自由の考え方です。
対して、上原さんの言われた「表現しても無視される」ということは、「聞く気のない強者は、弱者の表現を無視する」ということかと思います。一方で大森さんが例として出された「以前であれば相対(あいたい)の関係ではなく、第三者が入って解決しました」ということは、「聞く気のある第三者が聴いて仲裁した」ということなんだと思います。
表現は「聞く気のない強者」に対して行っても伝わらない。しかし、広く表現すれば、必ず「伝わる人がいる」。
私が怖いのは「表現が摘み取られること」、つまり密室です。ウィキリークスやセンテンススプリングではありませんが、SNSの発達した現代であれば、伝われば誰かが反応します。
SNS空間は確かにデマや人を傷つける言葉もあふれていて問題が多いですが、それを補って余りある「表現の自由の保障」があると思います。
最近のマスコミへの政治による圧力を見るにつけ、表現の自由を私たちに保障してくれるものとしてのSNSの偉大さを感じています。

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