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2016年1月1日金曜日

言語化の限界について

あけましておめでとうございます。
上原です。

すっかり、書き込みが遅くなってしまって、申し訳ありません。
昨年は秋から妙に忙しく、ようやく、元旦になって、ゆっくり物を考える時間ができました。

なんというか、「忙しさ」というのは、単に時間の問題ではないんですね。1日に30分ぐらいの時間、がんばれば作れないはずは絶対にない。でも、「忙しい」というのは、「時間」ではなく、「気持ち」の問題なんですね。つまり、忙しくなっているその要因は、「仕事の量」ではなく、「仕事の質」にある。そして、仕事の質によって気持ちに余裕がなくなると、いくら時間があっても、人は多忙感を拭い去れない……。

長い言い訳のようになってしまいましたが(笑)、そんなことはさておき、「言語化」について、話を進めてみたいと思います。

早川先生と大森さんから、「言語化と力の関係」の書き込みがあり、とても興味深く思いました。言われてみれば確かに、「いくら言語化しても伝わらない」ことの理由に、「情緒的」な問題とは別に、「相手の力があまりに強すぎると言語化しても伝わらない」、ということはありそうですね。

でもそれは、「伝わらない」というより、「無視される」という印象があります。いや、まあ、「伝わらない」と「無視される」の線引きも、難しいところではあるのですが……。

弱者からの「要求」が、強者によって「無視」されてしまうというのは、悲しいかな、確かに致し方ない部分はあるのかもしれません。そして、それを避けるためには、弱者側も「要求」を主張できるように、ある程度力をつける努力が必要なのかもしれません。

しかし、子どもが自殺してしまうような場合、言語化しても伝わらなかったのは「要求」というよりも「気持ち」だった気がします。伝わらなかったのは中学生の辛い、死にたいという「気持ち」であり、「要求」とはちょっと違う。

そう考えると、人の気持ちを扱う職にある人は、やはり、あくまでも、どこか「個人」と「個人」のつながりであるべきなのかもしれません。そして「個人」と「個人」の気持ちのつながりがあれば、もうちょっと相手のことがわかったのではないかと……。

その点をさらに推し進めると、結局「『気持ち』というもものは、所詮『言語化』だけでは伝わらない」という話になってしまうのかもしれないのですね。これぞまさに「言語化の限界」でしょうか。

しかし、現代に生きるわたしたちの、最大のコミュニケーション手段は、やはり言語です。言語を持たない人々や、言語のなかった時代、人間はどうやってコミュニケーションをとっていたのか……そこに、ヒントがある?のだろうか。

いずれにせよ、学校の先生が、生徒ひとりひとりと「個人と個人のつながり」を持つのは、精神的にも時間的にも無理な部分があるのかもしれません。そこをどう考えていくか。やはり、教師にせよ、医師にせよ、仕事の対象が完全に「人間」である仕事は、ほかの職業と同列では語れない大変な仕事なんだなあと、つくづく思うのでありました。

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