こんばんは、大森です。
早川先生から、いじめによる子どもの自殺について「子どもたちと学校側の力の拮抗がなければコミュニケーションが成り立たないのではないか」というご指摘を頂きました。
言語化とコミュニケーションには常に力の構造が影響しています。世界を見渡してみても韓国政府は国民の感情と意向に、中国当局は共産党幹部の感情と意向に、日本政府はアメリカの感情と意向に、その力の構造に逆らうことはとても困難です。
集団的自衛権と安保法制も国民の安全や憲法との整合性というよりは、アメリカの意向を忖度して「それが現実だからしょうがない」ということで決めてしまう。
興味深いのは、そういう力の構造が現実に存在するかどうかはわからないけれどもあると思ってしまうところ。
コミュニケーションが困難になった場合、以前であれば相対(あいたい)の関係ではなく、第三者が入って解決しました。日本だと経験豊かな長老や良識ある賢者たちだったでしょう、しかし価値観が多様化し複雑化したいまの社会ではそのような人たちの役割がなくなってしまいました。
これから私たちはどのような方法や仕組みで言語化とコミュニケーションを図って行くのがよいのでしょうか、とてもむずかしいです。
2015年9月16日水曜日
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