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2015年7月11日土曜日

「言語化」が無駄になる悲劇

こんにちは。上原です。

「言語化」についての議論が、再び展開中ですね。

で、早川先生、大森さんの投稿からは少しずれてしまうのですが、どうにも気になったので、岩手県の中学生男児が自殺してしまった問題にふれておきたいと思います。

この事件では、クラスメートからいじめを受けていた男児が、担任の先生との間で交わすノートでいじめを訴えていたにも関わらず、問題が解決に至らず、残念ながら男児は自殺してしまいました。
 
いじめ問題が起こるたびに、私は必ず、高校時代の国語の先生の話を思い出します。

その先生は、「いじめを受けた子が、その子のまわりで何が起きているのか、自分はどう感じているのか、どうしてほしいのかを、ちゃんと言葉にして伝えられるようにしなければならない。私は、そのための国語能力をしっかり子供たちに教えたい」というようなことを、いつも言っていました。

そこには、「いじめを受けた子が、ちゃんと状況や思いを言語化して、周囲に伝えることができれば、いじめの解決につながる」という考えが根底にあったのだと思います。そして、先生から教えを受けた私は、「確かにその通りだ。いじめに限らず、自分のことをちゃんと言語化して、必要なときに訴えることこそ、様々な問題解決につながる」と思っていました。

ところが、です。

中学生男児が、あんなに何度も、口頭ではなく文章という確実に残る形にして、しかも、学校の担任教師に自分の状況を訴えていたのに、問題は解決されず、最悪の形を迎えてしまいました。

教師はいじめた方の生徒たちに注意したこともあったようですが、その後も、男児は「もう限界」「死に場所は決めている」と、まさに言語化してノートで伝えていました。

彼の「言語化」は、受け手に届かなかったのでしょうか。私は、報道で、実際のノートのやりとりを見て、なぜ教師が放っておいたのか、まったく理解できませんでした。

もしかすると、学校側の構造的な問題があるのかもしれません。

教師が忙しすぎる、という問題もあるようです。確かにあのようなノートを、毎日、クラス全員分やりとりするのは、かなり大変なことでしょう。

いずれにせよ、「これはレアケースだ」と、私は思いたいです。

そうでなければ、「言語化しても無駄」ということになりかねません。それではあまりにも救いがない。

それともうひとつ思うのは、訴える側に言語化して「伝える力」も必要ですが、受ける側にそれを「聞きとる力」と「聞き取る意思」がなければ、どうにもならないということです。しかしこちらは、言語能力の問題だけではなさそうで、伝える力以上に、身につけるのが難しい能力なのかもしれません。


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