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2015年6月28日日曜日

言語化の役割

こんにちは、大森です。

本当に久しぶりの早川先生の書き込みで、そのテーマは切実で変わらぬスリリングな議論が今後も続けられることに感激しております(笑)

西欧におけるモハンマド風刺事件は、自らの価値観を他人に押し付けることを野暮とする私(日本人)からすると洗練されておらず垢抜けず「外国の人は困ったものだ」という感覚があります。

憲法論議については、法というものに対する西欧人の客観的基準と日本人の主観的基準の違いが現れていると思うのです。

西欧人は他者との共存のために客観的に参照する基準、それが法であり憲法になる。

日本人は法は客観的に参照するものではなく主観的に解釈する傾向があるように思われます。

私自身もいろんな裁判の判決に違和感を感じることが多く、それは法の論理と主観的感情との差異なのだと感じています。

なので、本来は政府に対する最高規範である憲法ですら日本政府は恣意的に解釈してしまうのでしょう、さて、問題はそこなのです。

今の政府が集団的自衛権の必要性において「現実の危機認識が変化したからだ」と言っています。人間の心が抱く現実と妄想はきっちりと分けられるものではなく紙一重と言ってもいいかもしれません。

この議論は現政府の現実と妄想はどのあたりにあるのか、私たち日本人が現実をどのように認識をしているのかを知るよい機会だと思います。

私は集団的自衛権については、憲法解釈という主観的かつ恣意的な手法ではなく、憲法改正という正当な手段で日本人の現実認識の議論(言語化)踏まえた上で立法を目指したほうがよいと考えるのですがいかがでしょうか。

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