心の病は、社会の病。

みんなが幸せに生きていけるように、より良い社会を求めて。

2015年6月16日火曜日

言語化の集大成としての憲法

ごぶさたしております。早川です。
忙しさにかまけて、書き込みが半年ぶりになってしまいました。
申し訳ありません。
思えばこの半年、様々なことがありました。
フランスでのシャルリー・エブド襲撃事件とその後の370万人のデモ、
イスラム国を名乗る集団による日本人殺害、
そして安保法制の国会論議。
いずれも、半年前に議論していた「様々な異なる考え方の人たちがともに生きていく上では、言語化をして議論をしていくしかない」というテーマと重なることの多い事件であったように思います。
いま日本では安保法制をめぐり、日々議論が戦わされています。
私は今回の一連の議論を通して、これまで漠然としてしか考えていなかった日本のことを真剣に考えるきっかけになったので、その点では有益であったように思っています。
特に、改めて憲法の意義を考えることができたことはとても大きかったと思います。
なぜ憲法に明確に決めておく必要があるのか。
異なる考えを持つ人たちがもめた時にどちらが正しいかを明確にする基準を冷静な時に決めておくのが、法律なんですね。
そして、それらの法律を初めとして、国の在り方についての合意を示すものが憲法なんですね。
特に、暴走すればとても危険な権力の在り方について、事前に約束していくものが憲法であることを、今回とてもよくわかることができました。
言語化の強みは「ぶれないこと」。言葉にすることで明確になるので、感情的になっても境界線を明示できる。
逆に言えば、曖昧な言語化では境界線は曖昧なままであり、安心にはならない。
そういったことを、身にしみて知ることができたように感じています。

0 件のコメント:

コメントを投稿