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2014年3月31日月曜日

「世間」における感情と論理

こんにちは、私、大森も大雪や実母の入院などでいつもとは違う日々を送っており、なかなか書き込めずに申し訳ありませんでした。

母の入院に際して医療に関しまたまた色々と考えなければならないことがたくさん出てきましたので、それは近い将来の議論のテーマにさせていただきます。

さて、日本人の行動規範の基になる世間について早川先生から、
・世間は不文律で修業の場になっている
・今後は社会が開放的になっていくので世間も言語化していく必要がある
というご指摘がありました。

いま日本は過渡期で大きな矛盾を抱えており、それが不安やわからなさになっているのだと思います。

例えば、日本人が大好きな「ものづくり職人国家」は、まさに師匠の背中と手を見て悟れ、という不文律の世間です。一方で、事実を積み重ねて合理的にやっていかないと物事は解決しない複雑な世の中になっています。

具体的にいうと、いまの若者は旧態依然とした農業には従事したがりませんが、生産管理にITを導入した農業にはどんどん入っていっています。

また、これからの世の中は人材や職業の流動性が高くなります。私たちは誰もができる仕事をしながら、徐々に誰もできない仕事を身につけたり探したりしなければなりません。

そういう意味で、早川先生の「言語化が大切」というお話に賛同します。

もうひとつ、憲法解釈について!
個人的には、政権ごとに憲法解釈が変わるのであれば、憲法など不要で、都度そのときの政権が基本的な法規範を示すほうが良いと思ってしまいます。

今の政権の憲法解釈における判断は、感情と論理を混同しており、感情では解釈を変えたい気分なのでしょう。しかし、法における言葉は論理的に意味を表さなければなりません。やはり、ちゃんと憲法改正のための議論と言葉を尽くし国民に問うべきだと考えます。

これからは、言葉における、感情と論理を充分に意識する必要があると思うのですがいかがでしょうか。

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