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2014年3月2日日曜日

不文律の「世間」を超えて

大変ごぶさたしてしまっております。早川です。
この3ヶ月あまり、本当に多忙で書き込めませんでした。
久しぶりですが、前回の続きを書き込みます。

前回は「世間」についての話になっていました。
・日本人の行動規範は「神」ではなく「世間」であること。
・「神」に比べてあいまいな「世間」が行動規範だから、日本人は不安になりやすいのではないか。
・「世間」を意識すればこそ、日本人らしい行動が保たれるところもあるので、よい面もある。
いずれも、その通りだなあと思います。
キリスト教やイスラム教は規律が明文化されているから、守ることがはっきりしている。
しかし日本の「世間」の規範はきちんと文章化されておらず、「なんとなくわかれ」「背中を見て覚えろ」という感じなので、わかりにくいところが多いように思います。
確かに、日本の伝統文化の世界("修行"のようなものが必要な世界)は不文律が多く、「その中に入って目で覚えろ」というようなことが多いように思います。
ただそれは集団の均一性や閉鎖性が前提で、「そこに適応するしかない」もしくは「小さなころからその集団に親しんでいる」のであれば成り立ちますが、集団が多様になり、開放的になると成り立たなくなるように思います。つまり、その「世間」の不文律を身につけるモチベーションが生じませんし、みんなどこかに行ってしまうのではないでしょうか。日本に住む人びとがこれだけ多様で開放的になってきた以上、そろそろ「世間」も規範を明確に言語化して行かないと、人びとが離れて行ってしまうのではないでしょうか(集団に入る前に集団の中のことがわからないと、中に入ってくれなくなる)。
あと、最近生じている「憲法解釈の問題」も、明文化したルールに不慣れなところから生じているのではないかと感じているのですが、いかがでしょうか。

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