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2010年3月17日水曜日

都市文化の中での自己愛の在り方を巡って 後編

前回に続いて今回はバーチャルと自己愛について投稿します。

●プログラム化されたバーチャル世界は自然に代わる存在か?
バーチャルと自己愛の関係ですが、現実社会の中で安定して存在できない自己愛が、バーチャル世界の中に居場所を見出すということは、よく言われることです。バーチャルな世界に常習性と依存性が必ずあるとは言えないですが、「ネット依存」と呼ばれるような現象は起きていますね。

その「依存」なぜ生じているかは、薬物依存について少し考えてみるとよくわかります。そもそも、薬物依存はどのような薬剤で生じやすいかと言えば、「速効性がある」「効果が強い」「容易に使用できる」「効果がすぐに切れる」といって特徴を持つ薬で起きやすいと言われていて、例えば速効型の抗不安薬、鎮痛剤などがそれに当たります。依存を起こすバーチャル世界は、まさにこの特徴を持っています。

例えばインターネットは、「容易にすぐに大量の情報にアクセスできるが、アクセスをやめればすぐに現実に引き戻されてしまう」わけです。となれば、現実世界がうまくいっていないひきこもり青年がインターネットにアクセスし続けるのは必然の流れでしょう。

このバーチャルな世界は、市販のゲームのように「事前にプログラムされた世界」と、インターネットやネットゲームのように「バーチャルを媒介としているが現実とも接点を持つ世界」の2つに分類できると思います。この内、より安全なのは前者です。

事前にプログラムされた時点でチェックされていますから、暴言を浴びせられたりして傷つくことはあり得ません。しかし、プログラムである以上終わりがありとめどなく続くことはありません。一方、現実と接点を持つバーチャルは、現実と接点を持つ以上危険も伴います。ネット上の掲示板での誹謗中傷は有名なことですが、バーチャルのお面をかぶっていてもその裏には人間がいるので激しく傷つくこともあります。ただ、現実がある以上終わりがない。これはネットゲームとかの面白さの半面、こわさにもなっています。つまり、永遠に抜けられなくなる可能性も秘めている。

簡単にまとめると、安全に自己愛を扱えるのはゲームなどの事前にプログラムされた世界ですが必ず終わりがあり、インターネットなどの現実を背景としたバーチャル世界は危険ですが終わりがない、ということですね。

ひきこもりの治療では、より深く傷ついていると危険が伴うような世界にはアクセスできないことが多いですね。初めはパターン化された市販のゲームの世界にひたり、元気が出てくるとネットの世界を介して現実と接しようとしたりします。この時に、現実離れしたネットの世界にはまってしまうと、どんどん現実離れが進んでしまう、ということが心配されます。

つまり、ネットの世界は現実を回避する目的で形成されることもあるので、非常に非現実的な世界観が形成されていることもあります。せっかく少し回復してきたひきこもりの青年が、たまたまそのような非現実的なバーチャルにはまってしまうと、非常に脱しにくくなってしまう。このあたりが全くコントロールできないのが、歯がゆいところです。

バーチャルの世界についてひとつ面白い解釈を述べておきます。「バーチャルな世界は、都会における自然の代用品ではないか」と思うのです。海や山や森などの自然は非常懐が深く、人間一人が人間だけの力で思い切り暴れたとしても壊れることはない。また、一人ひとりに対して別の反応を返してくれます。都会では自然が減った分人間がたくさんいますが、人間が同様のことを人間に対して返していくことは非常に難しい。思い切りぶつかってきたら逃げるでしょうし、一人ひとりに別の反応を返すのは面倒なのでしなくなります。

それに対して、ゲームなどの事前にプログラムされたバーチャルな世界は自然のように強固で、プログラミングされたことしか決して起こりません。どんなに無茶な使い方をしても、物体として壊さなければ壊れない。一人ひとりに個別の反応をしてくれますよね。なんとなく、都市化が進むとバーチャルな世界が増えてしまうのは、自然を感じることが減っているためではないかと思ったりするのですが、いかが思われますか?

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