心の病は、社会の病。

みんなが幸せに生きていけるように、より良い社会を求めて。

2010年3月17日水曜日

自己愛と家族という困難

こんにちは、大森です。
議論は「自己愛とバーチャル」について展開していますが、今回は自己愛に焦点をあてて考えてみます。特に考えたポイントが2つありそれについて展開します。

まずひとつめが、前々回の早川先生の「自己に対する強い関心」というご意見。確かに私も共感しましたが、それは昔からある「私は何者なのか?」という種類の問いとは違うような関心だと思います。例えていえば「私は他人からどう思われているか」とか、「私の個性は何なのか?」というような気持ちに近いものだと思います。なぜこのような種類の「自己に対する強い関心」を持つようになったのでしょうか?

それはこの社会で生きるには、「個性」を必要とすると家族や社会が考えているからだと思います。どんな親も子供に、平凡で普通に幸せな人生を送って欲しいと言いながらも、本音ではベストワンやオンリーワンを目指して「個性」を発揮しなければ!と感じているのです。親たちのこの要求が、子供たちの「自己に対する強い関心」に大きな影響を与えていると思います。いま小学校では自分の意見をプレゼンテーションできるようになるための授業もあるそうで、大変な環境の中に子供たちは置かれていますね。この流れは止められないのかもしれません。

実はこの流れは少なくとも昔からあったもので、「個性を持った自己愛」で育った私たちの世代がいまちょうど親になり、子供よりも自分に興味があって、無意識では子供たちに「おまえなんて必要ない」「いなくたっていいんだ」と感じているとしたら、なんと皮肉な巡り会わせかと思ってしまいます。

さて、ふたつめのポイントは「安定した自己愛」についてですが、これに関連して、この頃気になっているのは、映画やドラマやメディアなどで家族愛が頻繁に取り上げられることです。社会の復活は家族の再生がないと出来ない、とまで言う感じで、そのような番組が多数あります。

しかし家族の本質とかイメージ、すべての人に共通する家族の実体なるものは、あるようで無いようで曖昧なものだと思います。特に日本は西洋のように教会やボランティアに頼れないので、家族幻想や家族依存が強くなるのもしょうがないのかもしれませんね。しかし日本では年間発生する殺人事件の中で家族間のものが7割を占めるそうです、海外と比較すると圧倒的に割合が大きいそうです。それだけ日本は家族の関係が濃密だということで葛藤も多いのでしょう。

「安定した自己愛」を育むには「君が必要だ、居て欲しい」という承認が必要ですが、それは家族で無ければ育たないものでしょうか?早川先生が関わる病院や施設などでは「安定した自己愛」の育成はどのような状況でしょうか?やはり最後には家族が何らかの役割を持たなければならないのでしょうか?他者であっても、家族というようなイメージや形がないと「安定した自己愛」はつくれないのでしょうか?

※バーチャルに関しては前回、早川先生から非常に刺激的かつ興味深い解釈のご提示がありましたので、この回の投稿の早川先生の回答をお待ちしてから次々回に展開させたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿