心の病は、社会の病。

みんなが幸せに生きていけるように、より良い社会を求めて。

2010年3月17日水曜日

自己というリアリティをつくるためのバーチャル

こんにちは、大森です。

早川先生の投稿に「みんな、自分のことで精いっぱいで、お話をするにしても自分のことを話す人ばかりで、話を聞いてくれる人はとても少ない。」というお話がありましたが、そのとおりですね。昔から男性は、「女性にモテたかったら聞き上手になることだ」といわれていましたから(笑)、日本でもレディファーストの精神はあったのだと思います。でも今の男性は、女性を差し置いて自分のことをしゃべりまくります(小生も忸怩たるものがありますが;冷汗)。自分のことしか話さないと会話が成立たないので、会って話をする意味も無く、相手に理解されないとなるとメリットも感じなくなるので、次第に会わなくなってしまうということになります。

またこの頃、駅のトイレで髪型とか顔とかを長い時間かけて整える若い男の子がとても多くなりましたね。これも自意識が高くなった証拠かもしれません。男は中年になったら、女性よりもより醜くなるので、今の男の子たちは自分の貌に幻滅するでしょうから、大変だろうなぁと思います。そうなると資生堂のような企業が男性のアンチエイジングの市場をつくって商売にするのでしょうね、つまり自意識を支えるのは商品や経済行為や市場だということかもしれませんね。

さて、早川先生は前々回の投稿で「バーチャルな世界は、都会における自然の代用品ではないだろうか、海や山や森などの自然は非常懐が深く、人間一人が人間だけの力で思い切り暴れたとしても壊れることはない。また、一人ひとりに対して別の反応を返してくれ る」との興味深い解釈をされていました。先に書いたとおり、「自分のことを話す人ばかり」の世の中でバーチャルな世界の方が自分に応えてくれているというのはそのとおりかもしれません。

つまり、人間は(自然との)対話で自分を創っていく、ということになるのでしょうか。
(自然との)と括弧づきで書いたのは、人間は応答を待つ生き物、それがなければ生きていけないのかもしれませんね。都市にないから、バーチャルでつくってしまう…そういえばいま、twitterというインターネットのつぶやきツールを利用している人たちも増えています。このtwitterには応答を認めた人たちしか参加できないというルールセティングの機能もあります。人間関係のつくり方はほぼリアルと同じなので、ネットもゲームも使い方、つまりリテラシーが必要なのかもしれませんね。

人間は存在しない場合はドンドン自分たちで作ってしまう、自然にないものはバーチャルであれ映画あれ小説であろうがつくってしまう、これはある意味での逞しさでもあると思います。きっと、人間が言葉というものを使うようになって、その言葉で自己というイメージを作り上げなければならなくなってしまったので、自然であろうがバーチャルであろうが必要なものなのでしょう。「素敵な自己イメージをつくる」ために、自分の周りにないものをドンドン作り出さなければならない、それも一刻も速くスピーディーに。この営みと速さについていけなくなるとき心の病気の状態になるのではないかと思います。

自然とバーチャルの違いはプログラムされているかどうかの違いがあると思います。プログラムされている場合は予定説になりそうな気がします。自然も予定説と解釈する人たちもいますが、小生はそうではない曖昧な広さと不確実性があるような気もします、例えば、肌で感じるとか痛いとかの身体性ということなど。自然であれバーチャルであれ、人間が言葉で認識するかぎり限界があってどっちも同じだよということになるのか…自然とバーチャルの違いが心に及ぼす影響の違いもあるのかもしれないと思うのですが、いかがでしょうか?

しかし、私たちはネットとゲームをつくってしまいました。バーチャルが悪いとか危険だとかという評価をするよりも、有効に使う技術を習得するほうが必要だと思います。ネットやゲームはオペレーションや解釈が難しいので、小中学校で教育カリキュラムとして組み込むのもひとつの方法だと思うのですがいかがでしょうか?

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